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砂田弓弦の風を追うファインダー<10>遅れたキャプーチは配管屋のトラックでレース会場へ トラブルが絶えない空の旅

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 飛行機内にはいろんな人がいる。ミラノやパリから東京までのフライトで有名人を見かけることも少なくない。

 だけど飛行機の中で出会い、あとあとまで付き合いが続いたのはわずか1回。それはツール・ド・フランスが終わって、パリから東京までのフライトだった。ギャレーにエスプレッソコーヒーをもらいに行くと、2人の日本人のスチュワーデスさんが座って話し込んでいる。機内はガラガラで、「よかったらいっしょにお話ししませんか?」と言われた。

 2人とも定年退職間近。昔からの知り合いで、たまたま乗務がいっしょになり、話に花が咲いているところだった。1人はパリ~ルーベのスタート地であるコンピエーニュに住まわれ、もう1人はしょっちゅうツールの休養日の地となるポーにお住まい。退職された今でも毎年パリ~ルーベやツールの休養日に食事に招いてくださる。

 だけど、こんな素敵な出会いはこれまで1回しかなく、ひどい“出会い”の方が圧倒的に多い。まずは、これまでで最悪の出来事を書こう。

ツール・ド・フランスで飛行機で移動する選手たち Photo: Yuzuru SUNADAツール・ド・フランスで飛行機で移動する選手たち Photo: Yuzuru SUNADA

ここはゴミ箱じゃない!

 ヨーロッパから香港を経由して日本に帰ってきた時だった。

 隣の座席に、香港から乗り込んできた中国系の男が座った。スチュワーデスさんがワゴンをひいて通るたびに飲み物を頼む。ちょっと変わった人だなあと思っていたら、今度は持ち込みのフライドチキンをむしゃむしゃと食べ始めた。

 煎餅やみかんなどは日本のおばちゃんたちの専売特許だけど、フライドチキンは初めて見た。しかも、食べ方が下品。

 なんとなく、負のスパイラルに巻き込まれそうな空気を感じる中、その男、口から吐き出した骨を、なんと僕の座席の前にあるポケットに入れたのである。しかもハダカで。

 「悪夢を見ているような」という例えがあるが、一瞬、これが現実なのか悪夢なのか、とにかくよく分からなかった。呆然自失、頭の中が真っ白、例えはいろいろあるが、とにかく目の前で起きたことが信じられなかった。僕はなんのリアクションも起こすことができず、金縛り状態となった。

 だけどその男、犬のようにフライドチキンをガツガツと食い続け、そしてその骨をまた僕のポケットに入れた。

 この瞬間、「現実」と「悪夢」の中間に位置していた頭の中のスイッチが現実側にスライドし、金縛りが解けた。

 「これは悪夢ではなく、現実なんだ!」

 どうせ言っても分からないからヒジ鉄を食らわした。男はきょとんとしてこっちの顔を見たので、骨を指差して睨みつけた。そいつは、意味がよくわからないといった顔つきで、骨を2本、自分のポケットに入れなおした。やっぱりハダカのままで。

 前出のスチュワーデスさんたちにこの話をしたら爆笑していた。見たことも聞いたこともないって。そりゃそうだろう。

ロシアの空港で2度も足止め

 それから、ミラノからモスクワ経由のJAL便で帰国したときにも事件があった。機内アナウンスで「どなたか、お医者様か看護婦さんがいらっしゃったら、お声をかけてください」というアナウンスが流れた。ドキッとする放送だけど、僕はこれまで何度もこれを聞いている。

 そのうちにモスクワへ到着。見所のない窒息しそうな空港で時間を潰し、再度飛行機に乗り込んだが、いっこうに飛び立つ気配がない。それどころか、スチュワーデスさんが何度も乗客の数を数えている。人数が1人足りないのだ。僕は飛行機の中で具合が悪いと言っていたイタリア人女性じゃないかと思っていたが、案の定、そうだった。その人はなにも連絡をしないまま、病院に行ったらしいのだ。

 まあ、イタリア人だったらなきにしもあらずと思っていたが、今度はその人の荷物を出すために、全部の荷物を降ろす作業が始まった。こうして何時間も空港で時間が潰れたが、なんとかモスクワを飛び立った。

 そうしたら今度は中国人の容態が悪くなり、お腹の痛みで気を失ったという。そしてあともう少しで日本到着だったのに、ハバロフスクに緊急着陸した。

1990年のパリ~ルーベで優勝したエディ・プランカールト。彼は飛行機に乗ろうとしなかった Photo: Yuzuru SUNADA1990年のパリ~ルーベで優勝したエディ・プランカールト。彼は飛行機に乗ろうとしなかった Photo: Yuzuru SUNADA

 滑走路はガタガタだし、窓から見える建物もボロ。ソ連だったのかロシアだったのか記憶にないが、飛行機の中に何時間も閉じ込められた。

 さらに、日本領事館の人が空港に来て、事務手続きをやっているという。緊急着陸で空港内に入らなくても、なんらかの手続きが必要なのだ。やっと飛び立てると思ったら、今度は燃料を入れるところの口が合わず、燃料入れに苦労しているという。

 ベテランのスチュワーデスさんに聞いたら、一回のフライトで2人の急病人が出たのは初めての経験と言っていた。

 僕はこの時、東京でテレビ出演があった。最悪、番組に穴を開けることを覚悟していたが、それには間に合った。

飛行機に“乗れない”

 これまで航空会社や空港のストライキ、悪天候による欠航、スーツケースの破損やロストバゲージといった普通のトラブルはもう数え切れないくらいあるが、遅刻したことだけは一度もない。

1995年のジャパンカップを走るクラウディオ・キャプーチ。スペインのレースで配管屋のトラックでレース会場に駆けつけ、そして優勝した Photo: Yuzuru SUNADA1995年のジャパンカップを走るクラウディオ・キャプーチ。スペインのレースで配管屋のトラックでレース会場に駆けつけ、そして優勝した Photo: Yuzuru SUNADA

 ただ、ある仕事がうまくいかず、悶々として眠れなくて寝坊してしまい、フレーシュ・ワロンヌに行く飛行機を逃しそうになったことはある。時計を見て驚き、ミラノからベルガモまでの50kmの道を、あまり大きな声では言えないが、アクセル全開で行ったところ、幸いイタリアの女子選手たちが(フレーシュ・ワロンヌは女子のレースも同じ日にある)チェックイン・カウンターで列を作っていて助かったことがある。

 80年代後半から90年代前半に大活躍したイタリアのクラウディオ・キャプーチは飛行機が遅れ、スペインのレースへの出場が危ぶまれた。

 空港に着いたのはレースの直前。監督はスタートにいなくてはいけないので、迎えに行けない。そこで、知り合いの配管屋に空港へ行ってもらった。パイプを荷台に積んだトラックで現れたキャプーチは、スタートに間に合い、そして優勝したそうだ。

 だけど、飛行機に乗れるだけまだいい。中には乗ることができない選手もいるのだ。僕が初めて取材したパリ~ルーベは1990年だけど、そのときの優勝者エディ・プランカールトは飛行機に乗ることができなかった。

 また1986年のツールで3位、1988年のジロでも3位となったスイスのウルス・ツィンマーマンは1991年のツールの移動日に指定された飛行機を使わずにクルマで移動したため、コミッセールは失格の判定を下した。幸い、選手たちが彼を援護してストライキを起こしたためにこの判定が覆された。そう、彼は飛行機に乗るのが苦手だったのだ。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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