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砂田弓弦の風を追うファインダー<7>市川雅敏に鍛えられたクルマの運転 10万円のカーステレオとは1週間でお別れに

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 レースの撮影はモトだが、移動は飛行機かクルマがほとんどだ。当然、クルマに関するエピソードも少なくない。

 僕がイタリアで最初にクルマを買ったのは1990年。中古のプジョー505GTDという、ディーゼル・ターボのセダンだった。ピニンファリーナがデザインしており、素晴らしくかっこいいクルマだった。プジョーはその前の年まで、ツールのオフィシャルカーでもあった。

 当時、ロードのプロ選手だった唯一の日本人は市川雅敏だった。お父さんが日本屈指のポルシェのコレクターで、自身もクルマや運転に詳しかった。彼に鍛えられ、運転も多少はうまくなったと思う。

 僕はこのクルマでレースを回った結果、走行距離は半年で5万kmに及んだ。半年というのは、イタリアにそれを置いて、日本に戻るときもけっこうあったからだ。

自分で道を切り開いて日本で最初のプロのロード選手となった市川雅敏の自転車競技の知識は、ずば抜けていた。クルマの運転と共に彼から多くを学んだ(1992年、ジロ・デル・トレンティーノ)自分で道を切り開いて日本で最初のプロのロード選手となった市川雅敏の自転車競技の知識は、ずば抜けていた。クルマの運転と共に彼から多くを学んだ(1992年、ジロ・デル・トレンティーノ)

高さ30cmの札束で

 1992年、友人のメルセデス・ベンツCクラスでミラノからリエージュ~バストーニュ~リエージュの取材に行ったのだけれど、長時間移動での快適さにメルセデスのファンとなり、1993年に200Eというミディアムクラスのセダンに買い換えた。

 当時は仕事を始めて5年目。多少、懐に余裕ができた頃だったし、市川に「日本車で事故ると死ぬぞ。買うならドイツ車にしろ」と言われたことも大きかった。

 ちなみにこの頃、僕はまだイタリアの銀行に口座を持っていなかったので、ディーラーに現金を持っていった。1円が15リラくらいだったので、札束の高さが30cmくらいあり、さすがに担当者も驚いていた。

 話は脱線するが、その原資となる日本円は、結婚してまだ2年しか経っていない妻にお願いして、日本から持ってきてもらった。絶対に落とさないようにと強く言ったところ、お父さんから借りた腹巻を胴に巻き、そこにお金を入れて持ってきてくれた。

 メルセデスは、たしかに非常によくできているクルマだ。とくに1日1000kmを走ることが普通のヨーロッパでは(僕の最高記録はスペインからイタリアまで1日1600km。これを数回やったことがある)、その性能がより実感できる。とくにシートが良いので、身体への負担が少なくなった。

 しかし…。

カーステレオを持ち歩く

ヨーロッパで2台目の自家用車となったメルセデス・200E。非常にいいクルマだったが、不幸な運命をたどる Photo: Yuzuru SUNADAヨーロッパで2台目の自家用車となったメルセデス・200E。非常にいいクルマだったが、不幸な運命をたどる Photo: Yuzuru SUNADA

 購入当初、うれしさあまって10万円くらいするカーステレオをつけた。当時のカーステレオはよく盗まれたので、取り外すことができる弁当箱ほどの本体を誰もが持ち歩いていた。今考えると、本当に滑稽な光景なのだが、イタリアではこれが常識だった。

 実際、初めて取材した1990年のミラノ~サンレモではレンタカーを借りたが、レースが終わって家の前に止めておいたら、ガラスが割られていた。カーステレオを狙ったものだった。

 自分が買ったカーステレオは最新式で、本体を持ち歩くのではなく、小さな操作パネルだけを持ち歩けばよかった。

 この最新式カーステレオをつけてすぐ、プロ第1戦を迎えた今中大介を取材するために、クリテリウム・アンテルナシオナル(フランス)に行った。

 当時、このレースは南仏で行われていた(そのあと場所が何度か変わり、現在はコルシカ島で実施)が、イタリアもスペインもフランスも、南というのは治安が悪いのだ。

 この頃よりもさらに前にメカニックとしてヨーロッパに渡っていた藤原冨美男さんは、レースが南仏に入ると、自転車が盗まれないように機材トラックの中で寝たこともあったそうだ。

「ドアだけで幸い」と慰められ

 さて、アヴィニョン郊外のホテルに宿泊し、朝、駐車場に行くと、クルマのそばにシリンダー錠が落ちていた。それは僕のクルマのドアからもぎ取られたもので、つけたばかりのカーステレオをはじめ、トランクに入れていた取材の道具が全部なくなっていた。

 警察に行くと、「昼休みだからあとで出直せ」と言われ、カーステレオの盗難など犯罪のうちに入らないことを身をもって知った。

 今中のプロデビュー戦を取材し、ドアの鍵が壊されたままのクルマでミラノに戻るときに、国境でイタリアの警察官に職務質問された。そして壊れたドアのことを聞かれたので事情を話すと、「ドアだけで幸いだった。クルマは手元に残ったのだから」と慰められた。

 だけど10万円が1週間ほどで吹き飛んだのはかなりのショックで、改めてヨーロッパの治安の悪さを知った。

今中大介のプロデビューは1994年のクリテリウム・アンテルナシオナルだったが、ここでつけたばかりのカーステレオを盗まれた Photo: Yuzuru SUNADA今中大介のプロデビューは1994年のクリテリウム・アンテルナシオナルだったが、ここでつけたばかりのカーステレオを盗まれた Photo: Yuzuru SUNADA

地獄に仏…とはならず

 1996年のツール・ド・フランスでは、連日雨が続いた。ご存知、ミゲル・インドゥラインが6連覇を達成できなかった年であるが、大会前半の連日の雨も影響したのではないかと言われた。

 僕はこの頃まだオートバイの許可がもらえず、このメルセデスで取材していた。そして連日の雨でワイパーを酷使したせいか、とうとうレース中に動かなくなってしまった。

 そのとき、ゆるいスピードだったが雨で視界を失い、中央分離帯に乗り上げてしまった。沿道警備の警察官も飛んできた。まもなく広告キャラバン隊が通過したので、いちばん後ろについているレッカー車に止まってもらったが、ゴールまではわずかの距離なのでそのまま走れというではないか。

 泣きそうになりながらもそのステージをワイパーの止まったクルマで完走し、さらにホテルまで雨の降る高速道路を窓から顔を出して運転しつつ、たどり着いた。これ以来、フロントガラスに塗る撥水剤を日本から持参するようになった。

 翌日、修理工場に行ったら、土曜日ということで緊急出勤手当も加わり、よく覚えていないが、モーター交換で5万円以上10万円以下の出費だったと思う。イタリアでのモトのパンク修理とは対極だった。

 さらに、このクルマは不幸な運命をたどる。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載される

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