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砂田弓弦の風を追うファインダー<6>「敵はオレが撃つ」と自動小銃を携えたモト運転手 いびき、冒険、事故…苦楽を共に

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 前回はモト(オートバイ)の機械的な故障のことを書いたけど、運転手選びもとても大事だ。よく聞かれるのは、「運転手は大会側からあてがわれるのか?」なんだけど、招待レース以外は自分で雇うことになる。

 どんなオートバイを持っているのか、経験はあるか、どんな性格なのか…など、考慮するところはたくさんある。それから選手同様、2人1部屋で寝るので、イビキのことも気にかかる。実際、イタリア人の運転手2人はすさまじいいびきで、僕は耳栓をして寝ている。

 だけどいちばん大事なのは、「レースが本当に好きか?」である。大変な仕事だし、オートバイ自体の消耗も激しい。はっきりいって金にはならない。だから、レースが間近で見られて幸せという人じゃないと務まらないのだ。

モトの事故も決して珍しいことではない(2009年ジロ・デ・イタリア) Photo: Yuzuru SUNADAモトの事故も決して珍しいことではない(2009年ジロ・デ・イタリア) Photo: Yuzuru SUNADA

モトが行方不明に…

 数年前のツール・ド・フランスで、レースが終わったあと、ちょっと見たことがないほどの猛烈な雨が降りだした。そこで僕はクルマに乗せてもらってホテルに向かい、モトはクルマの後ろを追う形で走り出した。

 ところがモトが途中でいなくなり、運転手とも連絡が取れなくなった。夜になってもホテルに現れず、もう心配になって主催者側に連絡を取って、警察で事故等を調べてもらったりしたが、行方はつかめなかった。僕は夕食を食べる元気すらなくなって、布団に入って朝を待った。

 早朝、エンジン音が聞こえたので外を覗いたら彼がいた。お互いに感極まって抱擁しあった。彼は大雨で僕らのクルマを見失い、GPS(カーナビ)でホテルを探したが見つけられず、さらに携帯電話が雨で壊れてしまったという。

 彼はその夜、飛び込みで泊まるところを見つけ、そして朝になって人に聞きながらこのホテルを探し当てたのだ。ちょっとした冒険物語だった。

 だけど彼とは後年、喧嘩別れした。原因は些細なことだった。普段は非常にいいやつだし、若い頃には選手として走っていたから、それなりの知識もある。だけど、些細なことでも感情が抑えきれず、瞬間湯沸かし器になってしまうのだ。

 翌日、丁寧に謝ってくれたが、やはりレース中に喧嘩が起きると仕事に大きな影響が出るので、もういっしょにはやらないことにした。ツール・ド・フランスが近づくと、モトの運転手からの売り込みが増える。彼は今でもその中の1人なのだが…。

セルジョの思い出

僕がいちばん感謝している運転手はセルジョ。ここまでやってこられたのは、彼によるところがずいぶん大きい。右手でバッグを持っているのは、この日、白バイに追突されて壊されたから(2005年ジロ・デ・イタリア)僕がいちばん感謝している運転手はセルジョ。ここまでやってこられたのは、彼によるところがずいぶん大きい。右手でバッグを持っているのは、この日、白バイに追突されて壊されたから(2005年ジロ・デ・イタリア)

 いちばん恩義を感じているのは、僕の最初の運転手セルジョである。イタリア人でトラックの運転手をやっていたこともあり、道をよく知っていた。トレント地方の出身で、同じ地方のモゼールやシモーニ、フォンドリエストらといった有名選手とも親交が深かった。

 彼がモトの運転手を始めたのは1970年代だった。その頃のイタリアにはモゼール、サロンニ、バッタリーン、バロンケッリといったスターが揃っていたことや、レジャーが多様化していなかったこともあり、今とは比較にならないほど自転車レースの人気が高かった。

 そうした時代のおかげか、彼にはカワサキから新車のオートバイが2台も無料で提供されたというから驚きだ。恩返しの一環として、逃げている選手の横につけてわざとテレビに映りこむように走った時には、カワサキの社長が大喜びしてくれたそうだ。さらに、新車のテスト時に田んぼにつっこんでおしゃかにしたとき、カワサキはさっと代わりの新車を用意したという。今では信じられないような話である。

 セルジョは自転車レースが大好きだった。そしてどんなに雨が降ろうと雪が降ろうと、ボロいホテルに泊まることになろうとも、不平・不満はいっさいなかった。

 ただ、ジロのドロミテの山中で1回僕を乗せて派手に転倒し、そして2回目はスイスで移動中に路面電車の線路で滑ってやはり僕といっしょに大転倒した。そのとき僕は救急車で運ばれ、彼は痛恨の表情を浮かべていた。そしてそのジロを最後に現役を退いた。それが彼にとって節目となる30回目のジロだった。

忘れられないメキシコのレース

2008年、メキシコのブエルタ・チワワにて。運転手は自動小銃を常に携行した警察官だった Photo: Yuzuru SUNADA2008年、メキシコのブエルタ・チワワにて。運転手は自動小銃を常に携行した警察官だった Photo: Yuzuru SUNADA

 招待されるレースでは、主催者側から運転手をあてがわれることもある。

 マレーシアのツール・ド・ランカウイは、かつて非常に大きな大会だった。広告キャラバンに至っては、ツール・ド・フランスに次ぐ規模だった。

 しかしながら、地元の運転手は自転車レースそのものを知らないので、上から言われるまま動こうとする。僕が一生懸命に説明したところで、どうなるものではないのだ。だから、バカバカしくなってオートバイを降り、ヒッチハイクでゴールに向かったことがこれまで2度ある。

 一方、ヒッチハイクといえば、第1回ドバイ・ツアーも忘れられない。運営はイタリアのガゼッタ紙で、審判や交通係等にたくさんのモトを用意したが、すべてがボロく、1日あたり4台ずつ壊れていった。

 僕の乗ったモトはゴールの2、3km手前で動かなくなってしまい、交通係の運転手をヒッチハイクしてゴールに向かった。ガゼッタの連中とはもう腐れ縁でみんな仲良し、そんなこともあってとっさに助けてくれたのだ。おかげでゴール写真を撮ることができた。

 忘れられないのが、2008年に招待されたメキシコのブエルタ・チワワ。スペインの連中がオーガナイザーに加わり、立派で規模の大きなレースだった。

 モトの運転手は警察官だった。顔合わせとなった第1ステージでのあいさつは今でも忘れられない。

 「もしレース中に何か起きた時は後ろに逃げろ。敵はオレが撃つ」

 実際、運転中も自動小銃を身から離さなかった。

このブエルタ・チワワの第3ステージでは、表彰台の選手にTシャツが授与された。ゴールの村で殺された13人の名前が書かれている Photo: Yuzuru SUNADAこのブエルタ・チワワの第3ステージでは、表彰台の選手にTシャツが授与された。ゴールの村で殺された13人の名前が書かれている Photo: Yuzuru SUNADA

 あるステージでは、村人がギャングに殺されたことに抗議する黒い棺桶がゴールライン横に並べられていた。その数10以上!

 そして区間優勝者の記者会見はそっちのけで、殺された家族が壇上に立って怒りを訴え、プレスルームに号泣が響き渡った。重い空気が充満し、口を開くものは誰もいなかった。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載される

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