MSN産経ニュース連載【エキゾーストNOTE】特別編(上)不屈の魂を示したザナルディ 瀕死の重傷からパラリンピック自転車ロードで金メダル

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 9日に閉幕したロンドン・パラリンピックで、モータースポーツに深く関わりのある人物が素晴らしい活躍を見せ、多くの人々に感動を与えた。その道のりは、人生に苦しむ人々すべてへの、心強い励ましになるものだった。(産経新聞 只木信昭)

思い出の地で金メダル

9月5日にタイムトライアルで優勝し、初めて獲得した金メダルを掲げるザナルディ =英ブランズハッチ(AP)9月5日にタイムトライアルで優勝し、初めて獲得した金メダルを掲げるザナルディ =英ブランズハッチ(AP)

 9月5日、ロンドンから36キロ南東にあるブランズハッチ・サーキット。45歳のイタリア人が金メダルを首にかけ、感無量の表情で話した。「これは、私の人生でも最も素晴らしい業績の一つだ」。パラリンピックの自転車ロード競技、下肢切断者によるハンドサイクルのタイムトライアル(運動機能障害H4)で優勝したアレッサンドロ・ザナルディ。元F1ドライバーであり、米最高峰CARTチャンプカー・シリーズで2度の王座に輝いた、あのアレックスである。

 「20歳ならメダルを喜ぶが、40歳にもなれば、毎日やってきたことの成果に喜びを感じる。毎日のトレーニングを楽しんできた、魔法のような旅は最高の結末を迎えた。45歳で、こんな経験ができるのは素晴らしいが、同時にこれが冒険の終わりかと思うと寂しさも感じる」

 ザナルディにとってブランズハッチは、F1へ上がる前の1991年、国際F3000時代にコース記録も刻んでいる思い出のサーキットだ。そこでザナルディは、自らが設計、製作した炭素繊維製の競技用自転車で16キロを24分50秒22で走破。2位に実に27秒もの差をつけて圧勝した。ここで表彰台に上がったのは3度目であり、真ん中は初めて。「エンジンがついていたときは、こんなに坂がきついとは感じなかった。とてもきつかったが、美しいコースだ。自分のような“老人”にはピッタリだね」

新大陸で才能開花

 ザナルディがF1に昇格したのは91年シーズン終盤。そこから94年まで25戦に出走(ほかに予選落ち2度)し、最高位は6位入賞1度。性能と信頼性に劣る車に苦しみ、無理をしてクラッシュをして「壊し屋」という、ありがたくないあだ名ももらった。

 才能が花開いたのは米国に戦いの場を移してから。96年、当時、米最高峰のフォーミュラカー・レースだったCARTチャンプカー・シリーズに、トップチームのチップガナシから参戦し、2年目の97年から2年連続で王座を獲得してみせた。

 その翌年、99年にウィリアムズからF1に復帰したが、ちょうどウィリアムズが低迷期にあったこともあって再び苦しみ、最高位は母国・イタリアGPでの7位(当時の入賞は6位まで)。失意のまま、1年で契約を解除した。

 1年のブランクの後、2001年に再びCARTに参戦。この年、悲劇が起こった。

一命を取り留める

 01年9月15日、ドイツ・ラウジッツリンク。大会は初めから暗雲に包まれていた。4日前に起きた米中枢同時テロのショックは世界を覆っていた。主催者は当初、レース中止も検討したが、「われわれは走ることに決めた。それが最善の対応だと考えたんだ。人類はテロよりも強く、悲劇を克服できる偉大な可能性があるということを示すために、前に進むことが大事だとね」。ザナルディは振り返る。

 マシンからスポンサーロゴを外し、代わりに星条旗を張りつけることでレースは行われることに。ところが今度は強い雨に見舞われた。F1など欧州のレースと違い、時速300キロ以上でオーバルコースを走る米オープンホイールカーレースでは、雨が降ったら走れない。それがスタート数時間前に奇跡のように雨が上がり、レースは始まりを迎える。ザナルディは「多くのことが本当に変だった。いつもとは違っていた」という。

 トップ争いを演じ、最後のピット作業も順調に終えたザナルディ。残り16周。ところが加速レーンからコースに合流するところで「コントロールを失った。加速レーンに戻ろうとしたがレーシングラインのど真ん中に止まってしまったんだ。そして後続の1台目は避けてくれたが、2台目はダメだった」

CARTでレース中に他車に激突され、バラバラになったザナルディのマシン =2001年9月15日、ドイツ・ラウジッツリンク(AP)CARTでレース中に他車に激突され、バラバラになったザナルディのマシン =2001年9月15日、ドイツ・ラウジッツリンク(AP)

 アレックス・タグリアーニ(カナダ)のマシンは時速320キロでザナルディのマシンの側面に激突した。

 「車は2つに分かれた。一方には私の体があり、私の脚が残っていたもう一方は、“アリベデルチ(サヨナラ)”と、違う方向へ離れていった」。ザナルディは苦笑いしながら語る。

 すぐに救出されたものの、ヘリコプターで140キロ離れたベルリンの病院に運ばれたときには、血液の4分の3が失われていたという。「神父から臨終の儀式も施されたんだ。(そこから一命を取り留めたのは)言葉を探すなら、最も近いのは“奇跡”だろう。もっとも、私は奇跡ではなく(医療スタッフなど)奇跡のような人々からの素晴らしい贈り物だと思っている」とザナルディはいう。

リハビリへの意欲

 回復後のザナルディは、義足でのリハビリに積極的だった。「もともと私は、自分が乗る車のメカニズムに触れるのが好きだったんだ。チームのメカニックたちが触らせてくれることもあれば、触らせてくれないこともあったけれどね。だから義足がどんなふうに動くのかとか、自分にどういうふうに合わせるかとかを知りたくて、ベルリンの病院を退院するのが待ち遠しかったんだ」

 やがて自分で義足や車いすを設計し製作するようになった。ある夏、まだ小さかった息子のニコル君から泳ぎに行きたいとせがまれたときは、プールに入れるように、レーシングカーの燃料タンクに使われている素材を利用して義足カバーを作ったという。

 「子供の無邪気さってやつは、父親が車いすでプールに行くことの気まずさを理解してくれない…」と苦笑いしつつも、「自分自身を守りたかったが、同時に息子を楽しませたかった」。このとき作ったものは、今では義足利用者に一般的に使用されているという。 =(下)に続く

MSN産経ニュースより)
(下)レースに復帰しパラリンピックにも挑戦 不可能の可能にするザナルディ

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