サンケイスポーツ紙 連載よりスポークが折れても追いかけてきた中野浩一さんの執念 滝澤正光氏『私の失敗』<3>

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 私の競輪人生は、ミスター競輪・中野浩一さん(59)を抜きにしては語れない。

 私が競輪学校へ入る前からスーパースターとして名を知らしめていたし、1980年には日本のプロスポーツ選手として初めて年間獲得賞金1億円を達成。まさに競輪の象徴だった。

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「ガシャン、ガシャン」の音が耳にこびりつき…

 81年2月、初めて同じ競輪場に斡旋(あっせん)された千葉では、テレビで見る人だ…と見とれてしまった。そして、スプリンターらしい鋭い感じを受けた。

 決勝戦では中野さんと対戦した。レース中、前を走っていた私の自転車のペダルが中野さんの自転車の前輪と接触。ガチャンと大きな音がして、中野さんの前輪のスポークが何本か外れたのが分かった。

 前輪が破損した自転車ではスピードが出ないが、中野さんはガシャン、ガシャンと大きな音を立てて追いかけてくる。勝負への執念を感じたし、30年以上たった今でもその音が耳にこびり付いて離れない…。

 結果は私が1着。中野さんは3着だったが、車体故障がなければ簡単にまくられていただろう。

ウエートのベンチ裏に書いた『打倒 中野浩一』

 競輪では1着を取った選手が、一緒に走った選手にスポーツドリンクを振る舞う習慣がある。私は恐る恐る中野さんにドリンクを渡しにいったが、快く受け取ってもらえた。安心と同時に千葉にこんな選手がいると覚えてもらえたかなと、少しうれしくもあった。

 初戦では中野さんに勝つことができたが、恐ろしいほどのスピードの違いは身をもって感じていた。中野さんを倒さないと日本一になれない。日本一になるためには日本一の練習をするしかない。いっそう練習に身を入れたし、ウエートトレーニングに使うベンチの裏に『打倒 中野浩一』と書いて上半身も鍛え上げた。そして、私の最大の持ち味である先行力にも磨きをかけていった。

 その後も中野さんの快進撃は続き、競輪だけではなく、86年には世界選手権のプロスプリントで10連覇を成し遂げる。『NAKANO』の名は世界へとどろいていった。

レース後に知った中野さんの引退

1984年3月20日、地元の日本選手権で特別競輪初制覇を飾ってバンザイ。左は井上茂徳氏、右は山口健治氏 =千葉競輪場(提供・JKA)1984年3月20日、地元の日本選手権で特別競輪初制覇を飾ってバンザイ。左は井上茂徳氏、右は山口健治氏 =千葉競輪場(提供・JKA)

 中野さんを倒し、私の特別競輪初制覇となった84年日本選手権(千葉)は“ライン”による勝利だった。吉井秀仁さん、山口健治さん、清嶋彰一さん、菅田順和さんとラインを結成。菅田さんと山口さんが中野さんラインを抑え、その間に清嶋さんが私と吉井さんを連れて先行した。私はまくってきた中野さんに合わせて2番手から出て、ゴール前で井上茂徳さんを抑えて勝ち切った。

 まさか地元の千葉で特別競輪を、しかも日本選手権を勝てるとは…。予想だにしていなかった結果で、いきなり“宝くじ”に当たってしまったようなもの。雨の中の表彰式では感極まってしまい、インタビューで何と答えたのかよく覚えていない。

 中野さんのラストランとなった92年の高松宮杯(びわこ)で、先行した神山雄一郎君の2番手を奪って抜け出した私は、まくってきた中野さんを抑えて優勝した。中野さんが引退するのを知ったのはレースの後。最後まで思いっきりぶつかることができた。

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滝澤 正光(たきざわ・まさみつ)

1960年3月21日生まれ、55歳。千葉県出身。79年に日本競輪学校43期生としてデビューし、84年に日本選手権(千葉)で特別競輪初制覇。87年に史上最多となる13場所連続優勝を達成し、KEIRINグランプリ(平塚)初優勝。90年に競輪祭(小倉)を制し、史上2人目のグランドスラム(特別競輪全冠制覇)を達成した。2008年6月30日に現役を引退。通算成績2457戦787勝、優勝150回。特別競輪(GI)の優勝は12回、KEIRINグランプリは2回。生涯獲得賞金17億5644万831円。現在は日本競輪学校校長。

SANSPO.COMより)

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