サンケイスポーツ紙 連載より早朝、午前、午後と1日3度の練習 家族の協力あってこそ 滝澤正光氏『私の失敗』<2>

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1992年6月4日、高松宮杯5度目の優勝を決めた。左は中野浩一氏、右は井上茂徳氏=びわこ競輪場(提供・JKA)1992年6月4日、高松宮杯5度目の優勝を決めた。左は中野浩一氏、右は井上茂徳氏=びわこ競輪場(提供・JKA)

 1979年4月8日、私は滋賀県大津市のびわこ競輪場で競輪選手としてデビューした。初の開催(3日制)は初日と最終日に逃げ切りで勝つことができた。びわこではのちに特別競輪の高松宮杯を5回優勝することができたが、最初から縁があったのかもしれない。

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勝ちたいが、どうしていいか分からない…

 初陣は満足のいくものだったが、その後がよくなかった。決勝戦に進出することはあっても優勝できない。デビューから6場所を走ったが、決勝は3着が最高だった。逃げてはまくられ、まくりに構えると不発に終わるレースが続いていた。勝ちたいが、何をどうしていいか分からない…。同期のエリートたちが着実に出世していく中で、気は焦るばかりだった。

 苦しむ私に父(益雄氏、77歳)が救いの手を差し伸べてくれた。私はダッシュ力がなかったのでスピードを高めるために、父に頼み込んでバイクで誘導するスピード練習を始めた。最初は50ccのスクーターだったが、父は中型免許を取得し、250ccのバイクで誘導してくれた。

 スピード不足をカバーするには他人より早く先頭に立ってゴールまで押し切るのが得策。そのためには地脚を強化することが重要と、とにかく一日中、自転車に乗った。

一日8時間、200kmの乗り込みが日課

 朝3時半に起きて1時間から1時間30分、父のバイク誘導で50~60kmを乗り込む。朝食後、父は会社へ行き、私は80~100kmの街道練習に出る。昼食後、午後は50~60kmの街道練習。一日8時間、200kmの乗り込みが日課だった。自宅のある千葉県八千代市から外房の勝浦市や鴨川市まで行くこともあった。

 毎日練習でヘトヘトになったが、父は自分の練習に付きあった後に仕事へ行って働いている。午後7時半ごろには寝てしまう私と父のために家族は夜、静かにしてくれた。家族の存在がありがたかったし、そのためにも頑張らないと、と強く思った。

 猛練習が実り、デビューから4カ月がたった8月の大宮でB級初優勝を飾ることができた。この優勝がターニングポイント。やってきたことがつながった。これでよかったんだと大きな自信になったし、そこから成績は一気に上がっていった。

 さらに上が見たくなって練習に熱が入ってくる。翌80年1月にB級で10連勝し、A級(当時はS級がなく、A級1~5班、B級1、2班の2段階制)への特別昇級を果たすと、その後のいわき平では、いきなりA級初優勝をしてしまった。

ファンから「いいぞ! 親孝行!」の言葉

 A級とB級の違いは賞金の額からも感じられたし、少しずつ夢である特別競輪優勝に近づいているのもうれしかった。

 その陰には父をはじめ家族の協力があったからこそで、今も感謝の気持ちは変わっていない。

 私が父と練習していることを知っていたのだろう。87年のオールスター(宇都宮)を優勝したとき、表彰式でファンの方から「いいぞ! 親孝行!」という言葉をかけていただいた。

 人間ひとりひとりは弱いものだが、支えてくれる、応援してくれる人たちがいれば頑張れる。自分は家族のために頑張ろうという気持ちでやってきたし、そこを大切にしてきた。そのことが伝わったようでうれしく、感極まる思いだった。

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滝澤 正光(たきざわ・まさみつ)

1960年3月21日生まれ、55歳。千葉県出身。79年に日本競輪学校43期生としてデビューし、84年に日本選手権(千葉)で特別競輪初制覇。87年に史上最多となる13場所連続優勝を達成し、KEIRINグランプリ(平塚)初優勝。90年に競輪祭(小倉)を制し、史上2人目のグランドスラム(特別競輪全冠制覇)を達成した。2008年6月30日に現役を引退。通算成績2457戦787勝、優勝150回。特別競輪(GI)の優勝は12回、KEIRINグランプリは2回。生涯獲得賞金17億5644万831円。現在は日本競輪学校校長。

SANSPO.COMより)

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