サンケイスポーツ紙 連載より“素人組”の着替えは外…競輪学校で味わった屈辱 滝澤正光氏『私の失敗』<1>

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 私は自転車競技の経験なしに競輪選手になった。競輪の大ファンだった父(益雄氏、77歳)の影響もあり、千葉県立八千代高校2年のころから競輪選手という職業を意識していた。そして3年の秋、スポーツ新聞に載っていた『自転車競技の経験がなくても競輪選手になれます』という広告を見たときに「これだ!」とひらめいた。

 滝澤正光氏(55)=日本競輪学校校長=はパワーを生かした先行でレースを勝ちまくり“怪物”と呼ばれ、競輪界で一時代を築き上げた。優勝した特別競輪(GI)は12回、KEIRINグランプリは2回。史上最多となる13場所連続優勝、史上2人目のグランドスラマーなど記憶にも記録にも残る名選手だが、デビュー前は自転車競技の経験がない“素人”だった。その競輪道は失敗、挫折の連続だったが、夢を信じて猛練習に打ち込み、数々の金字塔を立てた。

「一緒に卒業できるのか…」

競輪選手として一時代を築き上げた滝澤正光氏競輪選手として一時代を築き上げた滝澤正光氏

 日本競輪学校(静岡県伊豆市)の入学試験は自転車競技経験のある『技能組』と経験のない『適性組』に分かれている。適性組の1次試験は100m走、1500m走、立ち幅跳びの3種目。2次試験は台に固定した自転車でスピードを測るものだった。身長180cm、体重93kg。中学、高校とバレーボールをやっていたので体力には自信があった。試験に無事合格し、1978年の4月に43期生として日本競輪学校に入学した。

 入学後は不安のほうが大きかった。技能組には五輪へ行った人もいる。競技でトップクラスの人もいる。それに対して、こちらはブレーキが付いていない自転車にまたがったこともないし、シューズをペダルに付けるクリップバンドの留め方ひとつできない素人。どれくらい力が違うのか、一緒に卒業できるのか…。

 当時は生徒が100人以上いたこともあり、控室は生徒であふれていた。そのため、技能組は室内で着替えているのに、気後れしてしまう適性組は外で着替えるという“格差”も生まれ、勝負の世界を実感させられた。

 それでも、追いついてやろう。自分をゴミにたとえ、『小さなゴミでも目に入れば痛いんだ』と気持ちだけは負けていなかった。そのためには経験を積むしかない。少しでも長く自転車に乗って体をなじませるしかない。

一日中練習 競輪学校から外出は2回だけ

 当時は自主練習の時間が少なく、訓練が終了した後、入浴までの僅かな時間だけだった。その一分一秒を惜しんでローラー台(回転する3本のローラーの上を自転車で走れる装置)に乗った。湯船にはつかれず、シャワーだけになる日も多かったが、時間ギリギリまで自転車にまたがっていた。

 また、日曜は休息日で外出できる日もあったが、技能組に追いつけるチャンスだと思ってバンクに入って自転車で全力ダッシュを繰り返し、一日中練習した。

 卒業までの1年間で日曜に外出したのは2回。1度は落車でけがをした友人のお見舞いと、1度は隣にあるサイクルスポーツセンターを見ておこうと行っただけだった。

 競輪学校の卒業順位は108人中42位。真ん中より少し上といったところだ。そんなときでも「将来、特別競輪で優勝するんだ」と秘める夢は大きかった。決して同期に口外しなかったが、練習日誌の後ろにしっかり目標を書き込んでいた。

 競輪学校では強くなりたいとばかり考えていたし、この試練、苦難を乗り越えれば夢はかなうと信じていた。目標を持つことで力になる。強く念じて精進した一年だった。

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滝澤 正光(たきざわ・まさみつ)

1960年3月21日生まれ、55歳。千葉県出身。79年に日本競輪学校43期生としてデビューし、84年に日本選手権(千葉)で特別競輪初制覇。87年に史上最多となる13場所連続優勝を達成し、KEIRINグランプリ(平塚)初優勝。90年に競輪祭(小倉)を制し、史上2人目のグランドスラム(特別競輪全冠制覇)を達成した。2008年6月30日に現役を引退。通算成績2457戦787勝、優勝150回。特別競輪(GI)の優勝は12回、KEIRINグランプリは2回。生涯獲得賞金17億5644万831円。現在は日本競輪学校校長。

SANSPO.COMより)

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