“自転車革命都市”ロンドン便り<10>ヘルメットはかぶるべきか? BBCテレビ番組がきっかけで再燃した是非論
「ああ、またか…勘弁してくれぇ!」――イギリスとそのほか英語圏の多くのサイクリストが頭を抱え込む事態が、また発生しました。そのトピックとは、“ヘルメットをかぶるかかぶらないか問題”。この話題になると、熱心なサイクリストの間でさえしばしば大激論になるのは、日本だけではなくこちらでも同じです。

炎上必至 ウィギンスの発言が火種になったことも
今回の火種は、オリンピックの自転車金メダリストであり、マイヨ・ジョーヌに袖を通した経験を持つ、英国出身のクリス・ボードマン氏。アワーレコードを長く保持していたこともある“サイクル・ヒーロー”で、最近は自転車の安全と普及のために精力的に活動しています。
ある時、BBCの朝の人気情報番組で、1週間毎日自転車の安全のコツを紹介するスケジュールだったのですが、そのボードマン氏、アナウンサーにハウツーを教える初日のビデオで堂々とヘルメットをかぶらずに登場したのです。女性アナウンサーは、ヘルメットはもちろん蛍光黄色のジャケットという完全防御スタイルでした。

ボードマン氏の真摯な活動を知るサイクリストなら、その瞬間「ああクリス、確信犯だな」と苦笑し、流れ弾を避けるために頭を低くしたことでしょう。BBCの番組のフェイスブックページは見事に炎上、主な批判内容は「Cyclist」読者のみなさんなら容易に想像がつくと思うので省きます。
イギリスでは自転車走行中のヘルメット着用は、日本と同じく義務ではありません。これについては、過去15年ほどの間、自転車ブームが勢いを増すにつれて幾度も「法律で強制すべきだ」という意見が政治家や有名人から上がり、議論が沸騰してきました。

そのたびに、CTC(有料会員7万人を擁するサイクリスト団体)など自転車の普及や安全を掲げるNGOや、自転車ご意見番的有名人が「ヘルメット着用義務化は自転車普及のためにならず、ひいては社会全体のためにならない。個人の選択にまかせるべきである」という見解を表明し、なんとなくその場は沈静化するということを繰り返してきました。
ヘルメット着用義務化の是非がいかに熱い議論になるかのいい例として、ブラッドリー・ウィギンス(イギリス、チーム スカイ)のエピソードもあります。ツール・ド・フランス優勝、オリンピック金メダル獲得と2012年、まさに時の人だったウィギンスが、インタビューで「たしかにヘルメット着用を義務化したほうがいい」と答えたところ、英メディアが義務化是非論で瞬時に沸騰したのです。おそらく、ウィギンスのもとにはすぐに自転車競技連盟などから「義務化は特段、安全性の向上に寄与しない」などという説明が入ったようで、翌日、彼自身があわてて「強制するべきではないと思う」と訂正したのでした。
自転車推進派が掲げるヘルメット義務化否定論
ボードマン氏を含め自転車の推進を掲げる識者たちが、ヘルメットの義務化に否定的な理由としては、以下のことが挙げられています。
ヘルメットの義務化に否定的な理由
●ヘルメット着用を義務化すると、自転車に乗る人が30~50%も減ることが、オーストラリアやニュージーランドなどの例から判明している。とくに都市部における自転車の活用は、肥満が増加している市民の運動不足解消に役立ち、大気汚染を減らす効果があるため利用者減少は避けたい。
●英国の自転車利用度が現在の2%から10%に上がると、NHS(英国の健康保険制度)のコストを最大で450億円削減できる。
●自転車に乗ることの健康効果は、ヘルメットをつけず事故に遭う可能性を計算に入れても、乗らない場合の20倍に達する。
●自転車の重大事故(死亡・重傷)において、頭部損傷によるものは10%程度と低い。つまり「ヘルメットをかぶっていたから大丈夫だった」という事故はそれほど多くない。さらに頭部損傷が原因で事故が重大になる割合は、じつは乗用車も自転車も歩行者もあまり差がない。自転車にヘルメットを強制するなら、自動車のドライバーや歩行者にも強制するのが筋。
●デンマークやオランダなど、自転車が普及している国や都市ほど、ヘルメットの着用率が低い(ユトレヒトはわずか0.5%! 参考動画はコチラ)。
●ヘルメットを着用していると、クルマのドライバーが追い抜く際の車間が安心感からか減少するという調査結果が英国内で出ている。
●事故の責任はクルマか、危険な走行空間を放置した行政にあったかもしれなくても、「ヘルメットを着けていなかったからケガをした(死亡した)のだ」と被害者を責める風潮が生まれてしまう。また、この不公平な意識も自転車の普及を阻害する。
●自転車に乗る人の数が増え、自転車での移動がごく普通のことになるのに比例して、自転車の安全性もアップする。逆もまたしかり。ヘルメットの強制で自転車が増えにくくなれば、自転車の安全性も向上しにくい悪循環に陥る。
たくさんの要素があるので頭に入りにくいと思いますが、誤解を恐れずにここでの否定論を要約すると、「自転車を使う人が増えると、環境改善や税金の節約などで自転車に乗らない人を含め社会全体がハッピーになる。しかしヘルメットを強制すると自転車に乗る人が大幅に減ってしまう。安全性もアップするわけではない」といったところです。
損得勘定をなしにすれば着用が安全

さて、賢明な読者のみなさんはお気づきかと思いますが、これら否定論のほとんどは社会全体を運営する際の損得の話です。もちろんそれは人口の数で割られてわたしたち個々人の損得としても降ってくるわけですが、わたしたち個人にはそれとは別に、例えば「今日、タクシーに追突されたり、逆走自転車を避けてトレーラーに巻き込まれたりするかもしれない」という目の前のリスクがあるわけです。
わたしはロードバイクを楽しんでいるひとりとして、とくにスポーツとして走るときにはヘルメットは絶対にかぶります。自分や周りの人が「かぶっていてよかった!」と思ったことは何度もあります。実際にわたし自身、高齢の女性が運転する乗用車に真後ろから突っ込まれて、空を舞ったこともあります。
なので、自転車を始めたいと友人に相談されたなら、ヘルメットをかぶるように勧めます。頭部損傷があった場合、ヘルメットがあると8割ほど損傷度が減る傾向があるという統計結果もあるとか。
「安心安全勢力のせいで、自転車が危ないと思い込まされている」
けれど、わたしも法律で義務化するのは違うと思います。なぜならば、ヘルメットなしで自転車に乗っていたことが理由で、誰かに危害を加えることはよほど特殊なケースを除けばないからです。ならば、その人自身の選択でいいのでは。例えてみれば、ヘルメットをつけない人を糾弾するのは、玄関の鍵をかけないで寝る人を糾弾するようなものだからです。「ヘルメットをつけていなかったせいで救急車の世話になって税金が浪費された」と考えることもできるかもしれないけれど、それはかなり小さなインパクトです。

ひとりの市民として、より多くの人が自転車に乗る社会は楽しそう。そこに暮らしたいし、1トン以上ある鉄の塊と丁々発止で走るよりも、たくさんの自転車と一緒に走るほうが安全でラクという気持ちがもちろんあります。だから、ヘルメットをかぶったら髪型が変になっちゃうと渋る人にまで強制するつもりはさらさらありません。
たしかに今回騒動を巻き起こしたのはテレビで一般視聴者に向けた内容だったので、「手本となるべくヘルメットをかぶって見せるべきだ」という意見はわからなくもないところです。けれど、ボードマン氏がここで同行のアナウンサー女性と同じようにヘルメットに蛍光黄色の安全ジャケットで登場していたら、「うわー本格的。自転車は俺・わたし向きじゃないわ」と思う視聴者が格段に増えたことでしょう。
また今回の炎上については、CTCの代表が「安心安全勢力のせいで、いかに人々が自転車が危ないと思い込まされ、健康や節約の機会を失っているか痛感した」とコメントしていたのも印象的でした。
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ひとりの人間としてはかぶったほうがいいヘルメット。けれど社会全体としてはその人自身の判断と選択にまかせる――これでいいのではないでしょうか? たとえ善意であっても、ヘルメットをかぶっていない人が写っている雑誌などにクレームを入れるようなことはしなくていいと思うのです。そして今回の番組の収録で、ボードマン氏にヘルメットを強要しなかったBBCはさすがだなとも思ったのでした。

ロンドン在住フリー編集者・ジャーナリスト。自動車専門誌「NAVI」、女性ファッション誌などを経て独立起業、日本の女性サイトの草分けである「cafeglobe.com」を創設し、編集長をつとめた。拠点とするロンドンで、「運転好きだけれど気候変動が心配」という動機から1999年に自転車通勤以来のスポーツ自転車をスタート。現在11台の自転車を所有する。ブログ「Blue Room」を更新中。