寺尾真紀の「ツールの誘惑」<4>メカニックが握り締めたコンタドールのグローブ これもツール、これがロードレース

  • 一覧

 週末、ツールはヴォージュ山脈へと足を踏み入れた。7月12日、前夜の宿泊地ナンシーから、第8ステージのスタート地点となるトンブレンヌに、チームカーとチームバスの連隊が次々に到着する。スタッフが車からサッと飛び出し、バスの脇にロープで四角いスペースを区切る。メカニックがその“不可侵スペース”に、手際よく9台の…チームによってはそれより少ない数のバイクを並べていく。すっきりしない空模様のせいか、それとも来たるべき死闘の予感か、空気は少し張りつめている。 (文・写真 寺尾真紀)

ティンコフ氏、登場

 ティンコフ・サクソチームにも、前日までとは少し違う緊張感が漂っていた。チームオーナーのオレグ・ティンコフ氏が現地入りしたのだ。夫人は断尾された闘犬種のリーシュ(引き綱)を手にチームバスの外に佇み、オーナー本人は、2人の息子を従えてチームバスのタラップを駆け上がっていく。

 他のチームの選手たちも慌しい時間を過ごした。チームバス → サイン台 → チームバス → スタートライン と黙々と行き来する選手もいれば、スタートラインに設けられたバレッタ(補給食)のコーナーでパワーバーを吟味する選手もいる。各賞ジャージの選手はTV局のインタビューに応じて立ち止まる。ジェローム・ピノー(イアム サイクリング)とブルターニュ・セシェの選手たちがベルナール・イノー氏を囲んで話し込み、その後ろでは日本人取材陣と談笑する新城幸也の姿も見られた。

ベルナール・イノー氏を囲んでフランス人選手の会合。その向こうでは新城幸也が日本メディアと談笑ベルナール・イノー氏を囲んでフランス人選手の会合。その向こうでは新城幸也が日本メディアと談笑
ティンコフ・サクソのチームオーナー、ティンコフ氏ティンコフ・サクソのチームオーナー、ティンコフ氏
パワーバー、お好きなものをどうぞパワーバー、お好きなものをどうぞ
インタビューを受ける山岳賞ジャージのシリル・ルモワーヌインタビューを受ける山岳賞ジャージのシリル・ルモワーヌ

 レースは南回りでジェラールメールを目指し、レースコース外を走る関係車両(われわれも含む)は、北回りで同じ目的地に向かう。スタート直前にぱらつき始めた雨は次第に勢いを増し、ジェラールメールの最終山岳、ラ・モズレーヌの頂上でレースの到着を待つころには、雷鳴とともに激しく降り始めた。ゴール脇で選手たちを迎えるつもりだった観客たちも、ひとまず近隣のバールに避難。レースを中継するTVの前に陣取り、体を温めるためか景気をつけるためかは定かではないが、アニスの匂いのするお酒をオーダー。

 話を聞くと、ユルヘン・ヴァンデンブロック(ロット・ベリソル)を追いかけてベルギーのゲント(ヘント)からやってきたとのこと。毎年、応援のターゲットとするベルギー選手を決めては、仲良し3人組でツールを追いかけているのだという。

ゴール近くのバールでレースの行方を追うゴール近くのバールでレースの行方を追う
雨のゴールに凍える選手たち雨のゴールに凍える選手たち

 今ツール初の山頂ゴールにたどり着いた選手たちは、ソワニエからドリンクやサコッシュを受け取り、寒さで体を少し縮こませながら、チームカーが待つ駐車場を目指して下っていった。

遅れてゴールする選手を励ますスタッフ 「明日、明日…」

前日ステージ優勝、山岳賞を獲得したブレル・カドリを、マルティン・エルミガーが祝福に訪れた。レース後は各々すぐにホテルへ向かうため、他チームからの祝福は、多くが翌日のスタート地点に持ち越される前日ステージ優勝、山岳賞を獲得したブレル・カドリを、マルティン・エルミガーが祝福に訪れた。レース後は各々すぐにホテルへ向かうため、他チームからの祝福は、多くが翌日のスタート地点に持ち越される

 7月13日も、ジェラールメールの上空にはまた灰色の雲がたれこめた。低気圧にツールを解放する気持ちはないのかもしれない。

 それでも何人かの選手たちの表情は明るかった。前日のステージでフランス人として今大会初の区間優勝を挙げたブレル・カドリ(アージェードゥーゼール ラモンディアル)は、ポルカ・ドット姿で多くの知り合いから祝福を受け、何人かの選手と親愛のハグ(抱擁)を交わした。ヨーロッパカーのアレクサンドル・ピショは愛娘とのビズ(キス)に勇気づけられてスタートラインへ向かった。この日、レース中に60kmのタイムトライアルをやってのけることになるト二―・マルティン(オメガファルマ・クイックステップ)は、いつも通りのポーカーフェイスで目の前を通り過ぎた。

 われわれの車はこの日、推薦されるレースコース外のルートではなく、レース後方を最初の2級山岳(11.5km)まで追走し、そこからミュンスターを経てコルマール方面に抜けるつもりだった。しかし、レース65km地点での交差を越えられず(コース内に再進入はできたが横切れなかった)、レースコースに戻ることに。結局、フィード(補給)ゾーンでレースの通過を待ち、チームカーと共にゴールに向うことにした。

フィードゾーンではお天気雨に見舞われたフィードゾーンではお天気雨に見舞われた
ステージ勝利に色めき立つオメガファルマ・クイックステップのソワニエたちステージ勝利に色めき立つオメガファルマ・クイックステップのソワニエたち
ゴールした選手をねぎらうブルターニュ・セシェのソワニエゴールした選手をねぎらうブルターニュ・セシェのソワニエ

 フィードゾーンのお天気雨は、ゴール地のミュルーズではカラリと晴れ上がった。青空に悠然と円を描くアルザスのシンボル、コウノトリの姿も見ることができた。ゴール前では、ロット・ベリソル、オメガファルマ・クイックステップのスタッフが誇らしげに今日の主役たちを待ち、観客たちは、ポディウムの恋人たちの姿にひときわ大きな歓声を上げた。

 華やかな表彰式が行われている最中、遅れてゴールしてくる選手たちがいる。それをじっと待つスタッフたちの姿もある。ブルターニュ・セシェの選手の肩を抱いたソワニエが「明日、明日…」と優しく言って聞かせる声が聞こえた。

「ああ、降りる…」 コンタドール落車リタイアの衝撃

気持ちのよい晴れ空となったミュルーズ。この後の大波乱を、このときは知るよしもない気持ちのよい晴れ空となったミュルーズ。この後の大波乱を、このときは知るよしもない

 7月14日はヴォージュ3連戦の最終日。スタート地のミュルーズでは、キラキラと太陽が輝いていた。ゴール前16km地点に設けられたプレスセンターと、プランシュ・デ・ベルフィーユ山頂を結ぶナヴェット(シャトルバス)に間に合うよう、サインイン・セレモニーが佳境に入る前にスタート会場を後にする。高速道路を走り出して間もなく、白い入道雲の端が灰色に煙り、雨のカーテンのようにこちらに近づいてくるのが見えた。2011年も雨が多いツールだったが、今年はそれに匹敵するかもしれない。半ばあきらめたような気持ちでしばらく雨の中を走ると、こんどはまた陽光がきらめきだした。大気の不安定さからくるものなのだろうか、そのあとも、天気はクルクルと変化し続けた。

 山頂まで行きたい気持ちもあったが、プレスセンターと山頂の中間点の、チームバス駐車場でナヴェットを降りた。テレビが1台置かれた休憩所が用意されているので、レースの展開もわかるし、もし何かあったときも情報が入りやすい。休憩所に入った時には、そのあとに何が起こるかなんて、まったく想像していなかった。

休憩所のテレビに見入るプレスたち。信じられない光景が目の前で繰り広げられている休憩所のテレビに見入るプレスたち。信じられない光景が目の前で繰り広げられている

 アルベルト・コンタドール(ティンコフ・サクソ)がゆっくりとぺダリングのスピードを緩め、アシストのマイケル・ロジャースと何か短いやり取りを交わすと、それまで黙ってテレビを見つめていた記者たちから、「ああ、降りる…」というため息のような声が上がった。足を引きずり、うなだれてチームカーに乗り込むコンタドールの姿に、普段はぽんぽん皮肉交じりの辛辣な言葉が飛び出すオランダ、ベルギーの記者たちも言葉を失ったまま。やっと出てきた言葉は、疑問ばかりだった。

 「そもそも何があったんだ?」

 「…わからない」

 落車の場所も、原因も、正確な情報はなかなか入ってこない。

 全くの偶然ながら、休憩所の隣にはティンコフ・サクソのチームバスが停まり、もう片側には移動式治療室(X線などを備えた移動式の簡易診察・治療室)が設置されていた。外を気にしながら過ごしていると、ルーフにバイクを載せた黄色いチームカーが1台滑り込んでくるのが見えた。

 助手席から降りたコンタドールは、スタッフにかばわれながらバスのタラップを上がっていった。ひと呼吸おいて、運転席からビャルヌ・リースGMが降り立ち、一言も発することなくバスに消えていった。後部座席に座っていたコンタドール専属のメカニック、フランシスコが、チームカーを人目につかない場所に移動させる。アクセルワークやハンドルさばきの荒さから、彼のやりきれない思いが伝わってきた。

移動式治療室のタラップを上がるコンタドールを、無数のカメラが追う移動式治療室のタラップを上がるコンタドールを、無数のカメラが追う
あわただしく対応に追われるティンコフ・サクソのスタッフたちあわただしく対応に追われるティンコフ・サクソのスタッフたち
ボロボロになったコンタドールのグローブボロボロになったコンタドールのグローブ

狂乱する観衆の中にたたずむ喪失感

 メカニックの居場所は、バスの中ではない。バスの中は、選手たちを手厚く世話するソワニエの領分だ ―― そんな考えの持ち主なのか、彼はバスに立ち入ろうとしなかった。コンタドールがバスから移動式治療室に向かうときも、遠くから見守っていた。

 先頭集団がプランシェール・レ・ミーヌの町を通過していったとき、狂乱する観衆の中に、フランシスコの姿を見つけた。後ろに手を組み、コンタドールのライバルたちが駆け抜けていくのを、静かに見つめている。その手に握られたものに気がついて、ハッと胸を衝かれた。落車でボロボロになったコンタドールのグローブだった。

 それは、コンタドール自身の喪失感とはまた違うものかもしれない。比較にならないものかもしれない。けれど、彼もまた、われわれの想像もつかないほど大きな喪失感の中にいるのだ。

 なんとなく彼を見ているのが辛くなって、走り抜けていく選手たちに目を向けた。

マイケル・ロジャースを先頭に、ティンコフ・サクソの選手たちが多く入った集団が通過する。彼らが守るべきだった男は、もうここにはいないマイケル・ロジャースを先頭に、ティンコフ・サクソの選手たちが多く入った集団が通過する。彼らが守るべきだった男は、もうここにはいない

 山頂で一息ついた選手たちが首にタオルを巻いた“お風呂上がり”のような姿で下山してくるころ、プレスセンターに戻る専用バスがやってきた。ぎゅうぎゅう乗り込み、通路に立って揺られていると、どこで紛れ込んだのか、目の前に座ったアンヴィテ(招待客)の親子が、今日のレースについてあれこれ話をしはじめた。

 一緒に乗り込んだASOのインターン生(フランス人プロ選手の妹さんなのだそうだ)が、その少年に尋ねる。

 「…今日、楽しかった?」

 彼はにっこり笑顔になって、親指を立てた。

 少しもやもやしていた気持ちが、晴れていくのを感じた。

寺尾真紀寺尾 真紀(てらお・まき)

東京生まれ。オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジ卒業。実験心理学専攻。デンマーク大使館在籍中、2010年春のティレーノ・アドリアティコからロードレースの取材をスタートした。ツールはこれまで4回取材を行っている。UCI選手代理人資格取得。趣味は読書。ツイッター @makiterao

この記事のコメント

利用規約順守の上ご投稿ください。

関連記事

この記事のタグ

ツール・ド・フランス2014 ツール2014・コラム 寺尾真紀の「ツールの誘惑」

  • 一覧

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

インプレッション

  • タイム
    アルプデュエズ01 ディスク

    ディスクブレーキで伝統の走りを進化

  • リブ
    AVAIL ADVANCED

    走る好奇心を止めない リブの新型‟無敵”ロードバイク

  • インプレッション一覧へ

    連載