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つれづれイタリア~ノ<102>イタリアへの道を開いた選手時代 NIPPOの大門宏監督インタビュー<前編>

by マルコ・ファヴァロ / Marco FAVARO
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 このコラムが始まり100回を超えることができました。イタリアと日本の2つの国を結び自転車競技の新たなる発展を探るために様々な話題を扱ってきました。今回は、長年にわたりイタリアと日本を結んできた方の話を紹介したいと思います。UCIプロコンチネンタルチームのNIPPO・ヴィーニファンティーニでマネージャー兼監督を務める大門宏さんです。前後編でお送りするインタビューの前編は、ヨーロッパでのレース活動の道を自ら切り開いた、大門監督の選手時代について聞きました。最後までお付き合いください。

長年にわたりイタリアと日本を結んできたNIPPO・ヴィーニファンティーニの大門宏監督 ©NIPPO Vini Fantini

「イタリアのチームで走りたい」

――大門監督は長い間、NIPPOを通じて日本とイタリアの架け橋を務めています。そもそもなぜイタリアとの強いつながりを持っているのですか。

大門監督:現在ディスクホイールの第一人者として知られている新家工業(ARAYA)の鉄沢孝一さん(かつての日本を代表するトップレーサー)からイタリアの素晴らしさをずっと聞かされていました。私が現役だった80年代前半はシマノレーシングチームにいた時期で堺から茨木市(大阪府)にあった新家工業の寮に何度もロードレーサーで遊びに行っていました。私にとって彼の影響は大きかったのです。1985年に発生した日本航空123便墜落事故により恩師だったシマノレーシングの辻昌憲監督が他界され、また同じ頃に鉄沢さんはイタリア・ヴァレーゼへ行く決心をしていました。

 複雑な気持ちであった私はシマノを退社(当時は正社員)して鉄沢さんの後を追って行きたいと藁にもすがる衝動に駆られました。

 その事をシマノの上司に打ち明けたところ会社からは辞表を取り下げられ驚いたことに休職扱いにされ、イタリアへ1年間行って来い!と言われました。私も上司からの気持ちを逆撫でし強引に退社して行くことは申し訳ないと思いました。当時のシマノは選手たちに何かしてあげたいという気持ちがあって、「会社からの派遣」として穏便に行かせたかったのだと思います。でも私は社員でいられるメリットは全く眼中になく、ただひたすら鉄沢さんの後を追いたい一心でした。

 当時ドイツのデュッセルドルフに所在したシマノヨーロッパ(当時の社名はSEGHシマノ)の役員が、現在シマノが運営する自転車博物館サイクルセンター館長の長谷部雅幸さんで、シマノの上司からまずは彼にコンタクトを取るように言われました。

 そして私は長谷部さんに長い手紙を書きました。「イタリアのチームに所属して走りたい」と。そこで長谷部さんから「アメデオ・コロンボさん(※)を紹介する。イタリアで活動するなら彼にお願いしますよ。まずはデュッセルドルフに来てください」という答えが帰ってきました。

※アメデオ・コロンボ 通称「Mr.Shimano」:イタリアで初めてシマノの製品に目をつけ、輸入に踏み切った起業家

 それで大韓航空の航空券を買って2月の誕生日(偶然)に西ドイツに向かいました。当時はまだ冷戦時代の最中で、アラスカのアンカレッジ経由という長旅でした。出発前日に当時すごく世話になっていた中川茂さん(ナカガワサイクルワークス代表)の家に泊めて頂いて伊丹空港に送って頂いたことを今でも鮮明に覚えています。

外国人選手は走れず…チーム探しへ

――当時の日本はイタリアへの強い憧れがありましたか。

大門監督:そうですね。その頃はヨーロッパへ行くと言ったら僕の中ではフランスではなくイタリアでした。なぜなら1964年に開催された東京オリンピック自転車競技日本代表チームに高校の先輩(山尾裕、缶範夫、辻昌憲)が参加されていて、当時ナショナルチームのコーチだったコスタというイタリア人トレーナーのことをよく聞かされていました。そういったOBからの影響も僕にとっては非常に 大きかったと思います。

 日本を代表するフレームビルダーの長沢義明さん(NAGASAWA社長)からもイタリアのデローザで修行をしていた頃の武勇伝をうかがっていましたが、私は高校、大学の先輩でもあった辻監督の影響もあって、ロードの一流選手を志すなら何が何でもイタリアへ行くしかないと思い込んでいました。

――初めてヨーロッパの土を踏みドイツに到着してからはどうされましたか?

大門監督:私がデュッセルドルフに到着して、長谷部さんからドイツで初めてご馳走して頂いた料理は、僕が内心期待していたドイツの地元料理ではなく、なんと天丼だったのです…。当時デュッセルドルフには多くの日本企業が進出していました。25歳だった私は、そこで天丼を食べながら長谷部さんに自分の意思を改めて伝え今後について相談しました。

 そしてドイツでは一泊もせずにその晩の夜行列車でデュッセルドルフからミラノに向かいました。自転車の入った輪行袋と大きなキャリアバッグを引きずりながら、駅を乗り換え約24時間かけてヴァレーゼの駅に辿り着きました。辺りには雪も積もっていて非常に寒かったことを覚えています。携帯電話のない時代だったにも関わらず、どうやって鉄沢さんと合流できたのかよく覚えていませんが、冷え切った身体で無事合流し連れて行ってもらったレストランで温かい食事をいただき、本当にホッとしました。

 イタリアで選手生活を始めるときは言葉の壁もありましたが、コロンボさんのサロンノのオフィスに通いながら、長谷部さんとファックスで連絡を取り合ったり、当時イタリアが担当でよくデュッセルドルフからイタリアに出張に来ていた古田さんには本当に世話になりました。コロンボさんからの紹介でイタリアのチームが見つかった矢先、落胆する情報を告げられました。実はちょうどその年から、イタリアでは外国人選手を登録できなくなっていたのです。

 というのも東ヨーロッパやソ連の選手たちがイタリア国内のローカルレースに勝ちまくって優勝賞金を根こそぎ持ち帰る状況を打破するためFCI(イタリア自転車競技連盟)が新ルールを適用。例え武者修行中の日本人であっても例外なくイタリアのチームは外国人を所属させる事は不可能と結論付けたのでした。(外国籍の選手でもインターナショナルレースはナショナルチームでの参加は認めた)

 そこで南スイスのイタリア語圏のチーム「ヴェロ・クラブ・メンドリジオ」へ行くようコロンボさんから紹介されたのです。その理由はスイスでは外国人でもチームに所属することが可能で、しかもイタリア・ロンバルディア地方のレースにも参加できるという特殊な国境越ルールがあったためです。外国人でも国境付近のイタリアのレースを問題なく参加できることができました。そこで南スイスのメンドリジオ市まで鉄沢さんとクルマにたくさんの荷物を積み込んで引っ越しすることになったのです。

 コルナゴがサポートしていたチームでしたがスチール製のコルナゴマスターに乗りながら、一番下のカテゴリーから選手生活が始まりました。上位での入賞成績が続き2カ月で一軍に上がりました。その間、鉄沢さんは膝を壊して帰国され、私は一人になりました。

選手時代からイタリアでレースに関わってきた大門宏監督(左) ©NIPPO Vini Fantini

「南スイス代表チーム」でも出場

――日本人選手は当時として珍しいことでしたか。

大門監督:珍しいことでした。当時はヨーロッパ全体でも数人しかいなかったと思います。でもヴェロ・クラブ・メンドリジオはいいチームでした。スイスナショナルチームの一員としてイタリアのレースでも走らせてもらったこともあります。今では変な話ですが、所属チームが南スイス代表チームでしたので、日本国籍の私もスイスのナショナルジャージを着て走ったのです。

――その後は?

大門監督:翌年、シマノを正式に退社させていただきました。南スイスでの活動は継続、ルガーノのチームにも移籍しました。色々な事情もあったのですが、結果的にマヴィック・ジタンに籍を置きました。オーナーはマヴィックのスイスの代理店だったのですが、主にホイールの組み立て作業などで午前中に働かせて貰えたため、不安だった生活費を稼ぐこともできて素晴らしい環境でした。

 市川さんはスイス在住でヒタチというプロチーム(今で言うとワールドチーム)で活動されていました。そして数年後、NIPPO(当時は日本鋪道)の選手としても契約しました。当時のアマチュア選手(※)は国籍が異なる2つのチームと契約することが認められていました。日本ではNIPPOの選手として走り、ヨーロッパではマヴィック。ジタンの選手として走りました。

 NIPPOに移籍した1991年はすごく調子のいい年で、チームのエースを支えるアシストの立場でも選手人生は充実していましたが、スペインのレースでも自ら成績を挙げることができ、トラックレース世界選手権に日本代表選手として参加しアマポイントレースで6位という成績にも恵まれたシーズンでした。

※当時は現在と違いアマチュアとプロ(ワールドツアーのみ)とカテゴリーが2つしかなかった

―—ヨーロッパで走ってみて、レースの印象はどうでしたか?

大門監督:集団の密集度が全然違いました。でも上り区間では競えたので気分は最高でした。レースは激しかったですが、イタリアで出会った人々はみんな親切でした。当時はイタリアのホテルでもシャワーのお湯が出ないことは珍しくなかったのですが冬でも苦にならなかったです。どちらかと言うと山岳レースが得意でしたが、当時日本では上りのある山岳レースはとても少なかったんです。スプリンターの活躍するレースが多かったように記憶しています。

 当時ロード界では第1人者だった高橋松吉さん、森幸春さん、三浦恭資さんからも、大門は絶対にヨーロッパへ行った方がいいと勧められた理由がここにあるかもしれません。当時の日本のレースに思い残すことは何もありませんでした。不思議と全く未練もなかったので、どんな嫌なことがあってもホームシックにはなりませんでした。

 イタリアにいて、とにかく選手を取り囲む環境全てに魅了されました。当時はオーストラリアやドイツ、東ヨーロッパの国のナショナルチームもイタリアを拠点として活動していました。世界中でレースも増え多くの国籍の選手が混沌としている今とは違い、当時のイタリアは、イタリアで開催されるレースに勝てば世界一になれるという時代でした。世界中のチームがイタリアに集結し、世界選手権のようなレベルでレースをしていました。

 選手だけでなく、各国の監督はイタリアのチームから洗練された運営を学び、メカニックなど多くのスタッフもイタリア人から多くのことを学んでいました。今でもワールドツアーのトップチームに所属する中年層の多くのメカニックやマッサージャーが巧みなイタリア語を話せるのはそのためです。まさにすさまじい環境でしたが、ここで勝てば世界のトップレベルで戦えると確信できる材料がそろっていたのです。

→後編につづく

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

東京都在住のサイクリスト。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会や一般社団法人国際自転車交流協会の理事を務め、サイクルウエアブランド「カペルミュール」のモデルや、欧州プロチームの来日時は通訳も行う。日本国内でのサイクリングイベントも企画している。ウェブサイト「チクリスタインジャッポーネ

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