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函館競輪で想定外の負け【二十歳のころ 坂本勉氏<4>】「坂本はどこだ」船内でファンが部屋探し

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 SANSPO.COMの連載「二十歳のころ」より、ロサンゼルス五輪の自転車競技(スプリント)銅メダリストで、元競輪選手の坂本勉氏の回を掲載します。

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◇         ◇

先行に徹して連勝街道

競輪学校時代、気の合う仲間たちと記念撮影。坂本勉(矢印)はトップの成績で卒業し、競輪界を代表する名選手となった (本人提供)

 日大卒業後の進路は、就職を勧める人も多かったですが、競輪学校に入学しました。同期のほとんどは高卒の18歳。メダリストなんて眼中にない、やんちゃなヤツが多かったから、いい意味で緊張感がありましたね。学校の成績は一番で、川崎競輪場でファンにも公開された卒業記念レースも1着でした。

 1986年の5月、地元の青森競輪でデビュー。3連勝できましたが、続く弥彦競輪は2、4、7着と散々でした。目先の勝ちにこだわるあまり、レースが小さくなっていたんですね。自分のレース(先行)に徹すると決心してからは、吹っ切れましたね。その後の連勝記録は「35」まで伸びました。

▼メモ 日本競輪学校
 1950年東京都北多摩郡調布町(現調布市)に日本サイクリストセンターとして設立。68年に現所在地の静岡県修善寺町(現伊豆市)に移転。

連絡船の個室に隠れて

 函館競輪で連勝がストップしたのですが、想定外でした。先頭の私の後ろについていた選手が、まだ(ゴールまで)1周ちょっと残っているのに、なぜかまくってきた。普通はこんなところで仕掛けません。ふたりで先行争いする形になってしまい、バテてしまった(7着)。罵声がすごかったし、いろんなものがバンクに飛んできた。場内は異常な雰囲気でした。

 帰りも大変。函館競輪が終わると、青森へは青函連絡船に乗って帰ります。ファンも大勢乗船していて、いつもは私たちと一般席でワイワイガヤガヤしながら帰ってくるのに、この時ばかりは、不穏なムードを察した先輩が個室を予約してくれたので、隠れておとなしくしてました。

 ところが間の悪いことに「青森からおこしの坂本勉さま、◯×◯×にご連絡してください」と船内放送が流れたものだから、大騒ぎです。当時のファンは今よりも血気盛んで威勢がよかったですからね。いつもの席に私たちがいないから「坂本はどこだ」と部屋探しが始まった。先輩選手数人が対応して「坂本は悪くない。(番手についた選手が)どうしてあんなレースをしたのか、俺たちにもわからないんだ」と何とかファンを鎮めてくれた。気が気ではなかったですね。

次男のデビューを機に引退

 問題のその選手は堂田さん(将治氏=北海道)といって、親分肌で人柄もいい人なんです。その後も一緒にレースをしていますし、わだかまりもないんです。ふたりとも現役を引退した今、あの時のことを聞いてみたいですね。

 中野浩一さんや滝沢正光さんと一緒に走れるようになった時は、本当にうれしかった。27、28歳のころは練習しながら、自分がどんどん強くなっているのが感覚的にもわかるんですよ。オールスターやグランプリにも勝つことができました。

 長男の貴史(28)に続き、次男の周輝(26)が競輪選手になったのを機に現役を退きました。引退後は自転車のナショナルチームのコーチ、監督も任され、貴重な経験をさせてもらいました。いまは日大の自転車部のサポートもしています。二十歳ぐらいの時はスポーツ選手に限らず、大切な時期なので、自分の経験が少しでも後輩たちの役に立ってくれたらうれしいですね。

(おわり)

坂本 勉(さかもと・つとむ)

 1962年8月3日生まれ、55歳。青森県三戸郡出身。日本大学在学時の84年にロサンゼルス五輪に出場。スプリントで3位になり、自転車競技では日本初のメダル(銅)を獲得した。競輪に転向後は89、91年オールスター競輪、90年KEIRINグランプリなどの大レースを制し、賞金王にも2度輝いた(89、90年)。2011年6月に引退。現在、サンケイスポーツで特別競輪の決勝当日に予想コラム「みちのくひとり言」を連載中。現役時代のサイズは1メートル68、73キロ、太ももは64センチ。

SANSPO.COMより)

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