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引退後初のイベント公式参加に密着メディアに消されたウルリッヒ ドーピングの闇を抜けて再び自転車愛を語った日

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 ツール・ド・フランス第2ステージの7月2日、レースは開幕地のドイツ・デュッセルドルフを後にして203.5km先のベルギー・リエージュへと向かった。筆者はドイツ側のコース上およそ100kmをレース直前にクルマで走行したが、街なかはもちろん街と街の間の牧草地・山林部であっても観客が絶えることなく沿道を埋める様子に目を見張った。それもそのはず、この日沿道でツール・ド・フランスを見届けた観客数は100万人。これほどまでに観客を沸かせるイベントがTV放送をはじめドイツ国内メディアで取り上げられてこなかったのはなぜか。2007年にドーピング問題で引退するまで人気を誇ったヤン・ウルリッヒ氏という存在がありながら、国内ロードレースのともしびが消えていったのはなぜか。ウルリッヒ氏の「Cyclist」単独取材などを交えながら、ドイツにおけるロードレースの“いま”をお伝えする。

10年の不在の後、初めて公の場に姿を現したヤン・ウルリッヒ氏。「Cyclist」の単独取材にも応じた Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

小さな街にウルリッヒ氏がなぜ

 ウルリッヒ氏が訪れたのは、デュッセルドルフからおよそ25km離れたコルシェンブロイヒという小さな街。人口およそ3万3千人、見どころは世界最古のビール醸造所くらいで、中心街は3分もあれば端から端まで歩き終えてしまうこぢんまりとしたサイズだ。

コルシェンブロイヒの観光名所は世界最古のビール醸造所「Bolten」(1266年設立) Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA
コルシェンブロイヒへ向かう沿道でドイツ出身の“悪魔おじさん”ことディーター・ゼンフトさんにも遭遇 Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA
ウルリッヒの長年のファン、ハラルド・エッサーさん(左)と、いつも一緒にサイクリングを楽しんでるというコリナー・アルティオさん Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 コルシェンブロイヒは、ウルリッヒ氏とは縁もゆかりもない。ツール・ド・フランスが通過すると決まった際に関連イベントの目玉としてウルリッヒ氏の招待を試みたところ、OKと返事をもらったのだという。実はウルリッヒ氏が引退後自転車に関連するイベントの公式な招待に応じたのはこれが初めて。10年ぶりに人々の前へ姿を現した記念すべき日だ。この街の出身で、20年前現役時代のウルリッヒ氏の活躍を観にベルギーでのツール観戦へ赴いたというハラルド・エッサーさんは「本当に来るかな…」と、期待と心配が入り混じった表情で待ち受けていた。

コルシェンブロイヒを訪れ観客にあいさつするヤン・ウルリッヒ氏 Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 そもそも国民的ヒーローであるウルリッヒ氏が、このような場所にいるというのは違和感がある。折しも今年は、ウルリッヒ氏が1997年のツール・ド・フランス総合優勝を果たしてから20年の節目となる。ドイツ主要紙は、「なぜウルリッヒがグランデパールに招待されなかったのか」とこぞって報道。ドイツ紙「WELT」(ヴェルト)によれば、ドイツ国内でのツール・ド・フランス放映権を握る公共放送連盟「ARD」がクリーンなスポーツを所望したとのことだ。すなわち、ウルリッヒ氏が招待される術はそこにはなかったという。

 ツール・ド・フランス前に熱心に番宣を打っていたARDは、特別TVレポートとして「自転車競技はクリーンなのか?」という疑問そのままをタイトルに冠した番組を放送。石畳のワンデーレース「パリ〜ルーベ」を控えたトニー・マルティン(カチューシャ・アルペシン)を密着取材し、UCI(国際自転車競技連合)によるドーピングコントロールの状況、チーム内のドーピング防止に対する姿勢や規制、マルティンの使用薬やサプリメントといった内容を映し出した。さらにマルティンの口から「(いまのロードレース界は)98%はクリーン」「チームは100%クリーン。やってるメンバーがひとりでもいれば、チームをやめる」と言わしめた。

メディアによりフィルターのかかったロードレース報道

 正直言えば筆者もドイツに暮らし始めるまで、ドイツでツール・ド・フランスへの関心が下火なのは、次々に発覚したドーピング問題を前にスポンサーが撤退して自転車ロードレースビジネスが立ち行かなくなった結果、TV放送もされなくなった――という定石どおりの考えでいた。ところが、“震源地”はほかにあるらしい。ドイツ国内有力紙記者は筆者の前で、ウルリッヒ氏を取巻く国内メディアの状況を次のように語った。

 「ドーピングについて(メディアの前で)はっきりと話せば、メディアも含め誰もが再びの活躍を歓迎するだろう。同様にドーピングで追われたかつての有力選手が、すべてを語り今ではメディアで活躍している例もある。ただし同選手はスポンサーへ金を払い戻した。ウルリッヒが話せば、やはりスポンサーへ多額の支払いが生じるだろう」

ヤン・ウルリッヒ氏は長年メディア取材を避けてきた。今回の筆者の取材にも最初はこわばった表情だった Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 吐かない限り追い続ける、これがメディアの本音だ。それはジャーナリストとしての闘志とも言えるが、読者や視聴者にとってみれば、メディアが報道しない限り取捨選択されたストーリーにしか触れることはできないのだ。

 今回筆者が沿道で観戦する人の声を拾っている時も、ロードレースやツール・ド・フランスに対する知識のなさが目立った。これまで筆者がレース取材で巡ったフランス、オランダ、ベルギーなどでは見られなかった光景だ。カップルで観戦に来ていた女性は、「ライダーがあんなに国際色豊かだと思わなかった。それに何あのへリコプターの数!」とレースが通過後おどろきあっけにとられつつ興奮気味にパートナーと感想を語り合っていた。

コルシェンブロイヒの沿道でレースを目前にした観客ら Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA
家族や近所の人たちと一緒に楽しく観戦。左から2番めがルーカス・ヤンスさん Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 また家族や近所の人たちと一緒に観戦に来ていたルーカス・ヤンスさん(19歳)が知っていたのは、マルティンの存在と「ウルリッヒはサイクリストで過去にドーピングをした」ということだけ。「学校の誰もロードバイクをやっていない。サッカーはやってるけれど」と話し、ロードレースのあれこれを逆に筆者へ興味津々といった様子で質問してきた。

 自身もサイクリストである前出のエッサーさんは、「選手を持ち上げておいて底に突き落とすようなドイツのメデイア、ショービジネスにはうんざりだ」と漏らした。ウルリッヒ氏については、「今でもみんなの、それに私の心のヒーロー」と話し、ドーピングについて本人の口から語ってほしいかどうか筆者が尋ねると、「彼はディプレッション(鬱)になったりと充分苦しんだ。それに優しい心の持ち主。また苦しんで欲しくはない」とおもんばかった。

 なお、ウルリッヒ氏の全盛期ARDはその活躍によって年に数10万ユーロの利益を上げていたとされる。

ツールは「スポーツ自転車に貢献する広告塔」

ヤン・ウルリッヒ氏が登壇するステージ前に集まった観客ら Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 ステージでウルリッヒ氏は、司会者からの質問に答える形でツール・ド・フランスや近況について語った。会場の観客へ向けて司会者が「ロードバイクに乗ったことがある人」問うと、挙手はまばら。それにもかかわらず観客は熱心に耳を傾け、ウルリッヒ氏の一挙一動に注目した。

 ドイツでのツール・ド・フランス開幕についてウルリッヒ氏は、「ツール・ド・フランスはスポーツ自転車カルチャーに貢献する広告塔」として歓迎。ステージの後Cyclistの取材に対しても、「デュッセルドルフでのスタート、見ましたよね? とても素晴らしかった。私は20〜30年前からドイツでやったらいいと言ってきたんです」と誇らしそうに語っている。

 ステージでは続けて、ウルリッヒ氏が選手目線でツール・ド・フランスについて言及した。

 「バイクの上では当然集中しているけれど、観客やファンはよく見えるし、ラジオツールを耳にしていても声援はよく聞こえます。観客との思い出は、おかしいと思うかもしれないけれど、200kmずっと人が途切れない時にこっそりトイレ休憩ができなくて困ったことかな」

 「きのうみたいな雨のタイムトライアルを私が走ったとしたら、やっぱりいつもより遅くなります。20秒遅れをとったとしても、安全に走りきれば後のステージでばん回のチャンスがあるからです。ツール・ド・フランスの勝敗は初日で決まるものではありません」

司会者の質問に答えるヤン・ウルリッヒ氏 Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 ハプニングもあった。司会者が「どんな『Hilfsmittel』を使ったことがあるのか」と質問したのだ。同ドイツ語が含む意味は、走りの助けになるすべてのもの――補給食はもとよりドーピングやメカニカルドーピングであっても――が含まれる。直後に司会者は「ドーピングを意図してのことではありません」と釈明。続けて会場へ向けて「ドーピングについて質問がある人はいますか?」と問い、誰からも手が挙がらないことを確認してその場を丸く収めた。

「父親としての時間を過ごしたい」

「Cyclist」の単独取材で笑顔を見せるヤン・ウルリッヒ氏 Photo: Aki SCHULTE-KARASAWA

 現在ウルリッヒ氏は、趣味としての自転車を楽しんでいる。仲間と一緒にイベントへ参加したり、各国でグルメとスポーツを満喫できるファンとの小規模なライドイベントを催しているという。

 Cyclistの取材で、「自転車業界(cycling Industry)のためにこれから何か貢献したいか?」と尋ねると、答えははっきりと「ノー」。ツール・ド・フランスについて熱心に語っていたため「目前でレースを見ても?」と食い下がって聞いてみても、やはり答えは「ノー」。プライベートに自転車を楽しむ「いまの状況に満足している」という。ウルリッヒ氏のウェブサイトを見るとバイクブランドやプロダクトブランド名が掲載されているが、提供製品を使っているだけでカタログ制作や積極的PRなどに協力しているわけではないと断った。

 さらに「子供の父親としての時間を過ごしたい」と家族思いの素顔も。ウルリッヒ家はとてもアクティブで、自転車だけでなく多くのスポーツに親しんでいるという。ウルリッヒ氏は、「一番下の息子が『次のサイクリングはいつ?』ってまとわりついてくるんです。アイスクリーム屋へ行きたいからなんですけどね」と微笑ましいエピソードも紹介した。

◇         ◇

 ステージでのウルリッヒ氏の最後の言葉は、「スポーツは人を繋ぐ。そしてサイクリングは大きな家族のようなもの」。ウルリッヒ氏の自転車への絶えることのない愛に、観客からは大きな拍手が送られた。そして一歩進むごとに写真やサインを求めるファンに笑顔で応えつつ、ウルリッヒ氏はサイン会場へ。小さな街のサイン待ちの列は、10m以上続いた。

シュルテ柄沢亜希シュルテ柄沢 亜希(しゅるて・からさわ・あき)

1982年生まれ、ドイツ在住。東京を拠点に4年間記者生活を送った後、フリーランスへ。書くこと、レポートすることが生きがい。執筆ジャンルは自転車・アウトドアアクティビティ、スポーツ、旅、食、アート、ライフスタイルなど文化全般。幼少期の5年間をドイツ・ハンブルクで過ごしたことがアイデンティティのベースにある。ブログ「ドイツのにほんじん」ほか、多媒体にて執筆中。

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