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道を切り開いたパイオニア「常にトップを目指しチャレンジを」 “レジェンド”今中大介さんが語るツールへの道

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1996年にツール・ド・フランスに出場した今中大介さん。オープニングでアジアから初の参加選手と紹介された Photo: Masao KANEKO

 近代ツール・ド・フランスに日本人選手として初めて出場した日本ロードレース界のパイオニア、今中大介さんのトークショーが、6月16日に自転車活用推進研究会(自活研)の主催で行われた。自転車に乗り始めてプロ選手を目指す道のりや、上を目指し、人知れず続けていた努力など、輝かしい「レジェンド」となるまでの今中さんの軌跡が明かされた。その様子を自活研理事の瀬戸圭祐さんがレポートする。

「ロード競技で日本一に」社長に送った手紙

 広島県の可部町(かべちょう)で育った今中少年は、中学生の時に街に一軒しかないスポーツ自転車を扱うショップにあったミヤタのスポルティフ(軽快車:ランドナーとロードバイクの中間的モデル)の広告に釘付けになった。「ルマン」というモデルで、それが最初の自転車でありレーサーへの道へと進むトリガーとなった。

世界のトップで戦う厳しさを熱く語る今中大介さん Photo: Masao KANEKO

 高校生になると片倉自転車のロードレーサー「片倉シルク」で広島中を走り回ったり、仲間と草レースをしたり、カンパニョーロのパーツを収集したりするガムシャラな自転車オタクになった。

 大学では自転車部がなかったため、20人ほどの仲間を無理やり勧誘して自転車部を創設。しかし仲間は自転車を持っていなかったため、日本自転車競技連盟と粘り強く交渉し、20台のロードバイクを借りることにこぎつけた。しかし創設直後の素人集団ではさすがに目立った成績を挙げることはできなかった。

26歳でシマノの実業団チームに入った際、遅咲きのレーサーとして自転車競技マガジンに紹介された 提供: Daisuke IMANAKA

 その後、シマノに入社してレースに出たいと考えたが、無名に近い学生ではまともに取り合ってもらえなかった。

 そこで、面識もない当事の島野尚三社長にいきなり「ロード競技で日本一になって御社に貢献したい」と手紙を出した。それで島野社長と面談する機会を得て、ツルの一声で入社が決まった。

レースに出たい一心で肉体改造

国内で多くのタイトルを手にし、世界へのステップを踏んだ 提供: Daisuke IMANAKA

 もともとヒルクライマーだった今中さんだが、シマノで実業団チームとして活躍するには平地も走らなければならない。スプリンターがヒルクライマーになる事はあっても、その逆はほとんど前例がなかった。

 しかしレースに出たい一心でがむしゃらにトレーニングをし、スプリント力をつけた。映画『ロッキー』の影響で毎日生卵6個を飲み込み続け、筋骨隆々な身体に変身。トラック競技にも選手として出場するようになった。

1995年にベイビー・ジロに初出場。レース中は厳しい戦いながらも、大らかな雰囲気が楽しめた 提供: Daisuke IMANAKA

 必死の努力が実り、ツール・ド・北海道総合優勝3回、国体3連覇などの輝かしい成績をあげた。そして、シマノのテストライダーとして欧州へ行く。ジロ・デ・イタリアのアマチュア版である「ベイビー・ジロ」への出場を目指したが、主催者からはまるで相手にされなかった。そこで日本自転車競技連盟には内緒で勝手にジャージに日の丸をつけ、日本のナショナルチームを名乗ることで出場にこぎつけた。

所属していた「ポルティ」のジャージ。仲間全員のサインが書かれた宝物だ Photo: Masao KANEKO

 その後いくつものレースに出場し、やっとプロチームに所属することができた。元世界チャンピオンのジャンニ・ブーニョ選手が所属するイタリアのトッププロチームである「ポルティ」だ。入ったはいいものの、イタリア語以外片言の英語ですらほとんど通じない。筆談しかできない環境でのプロ生活がスタートした。

日本と世界の実力差に唖然

チームでは選手のブロマイドを作成し、ファンに配った。今ならプレミアもの! 提供: Daisuke IMANAKA

 チームでの練習は、まるでジェットコースターに乗るような感じだったという。日本ではありえないスピードでアップダウンの激しい道をアウターのみで高速走行を繰り返す。生半可な思いではついて行けず、必死で喰らいついていった。

 日本との差は歴然だった。ツールやジロは1日200km近く走り、獲得標高5000mを超えることもある。そのような環境を想定したトレーニングが当たり前のように繰り返された。さらに心拍数や脈拍、呼吸など様々なデータを取り、当事出始めであったMacのモバイルPCを用いて解析し、科学的に緻密なデータにもとづいたトレーニングも当時から行われていた。四半世紀前の日本では考えられないレベルだ。

PCにデータを取り込むため、全身にセンサーとケーブルをつけてローラー台で練習 Photo: Masao KANEKO

 どんなに過酷なトレーニングを積んでも、監督に認められなければレースには出られない。言葉が通じない監督に、筆談で毎日のようにトレーニングとその成果を説明に行った。休日にも監督の自宅に押しかけ、寝ている監督を起こしてまで必死に自分のアピールを行ったこともあるというほど。それほど必死だった。

実力で勝ち取ったジロへの出場

ジロ12日目に集団落車。歯が折れ顎を4針縫うが、そのままレース復帰 提供: Daisuke IMANAKA

 1995年のジロは9人中8人の出場選手が決まっていた。残り1人の選抜がジロへ出発する当日の朝に行われた。チーム内の3人が呼ばれてヒルクライムの模擬レースを行い、それに勝ってついに出場を勝ち取った。それから荷物をまとめてチームバスに乗り込んだのである。

 ジロでは12日目に落車して歯が折れ、顎を4~5針縫うほどのケガを負った。それでも死に物狂いで追いかけ、集団に追いつきゴールした。しかしそんなことは欧州では当たり前。チームメイトからは顎を縫った黒い糸が、黒ひげが生えていると茶化され、笑いのタネになっていた。

 同時に落車したバネストの選手は頭を数cm縫っていたが、一緒に笑っていた。それが世界のプロ選手たちなのである。

テレビに流れる「イマナキャ!」という名前

 翌1996年、ついにツール・ド・フランスの出場選手に選ばれた。アジア人初の出場ということで、大きな注目を浴びていた。しかし直前に坐骨神経痛になり、ベッドから起き上がれない状態に。それでもほとんど気力で治した。

様々なデータを手書きで細かく表にし、分析を繰り返した Photo: Masao KANEKO

 レースではチームのエースであるリュック・ルブラン選手のアシストとして全力を尽くした。200Kmの沿道を450万人が埋め尽くすが、観客との接触などでルブラン選手が大幅に遅れたりした際にも、遅れを取り戻すべくアシストを尽くし精力的にサポート。またアタック潰しなどでもチームに貢献した。しかし、体調を崩し14日目に制限時間内にゴールできずリタイアとなった。

 ちなみに筆者は当時欧州に住んでおり、テレビのライブ中継で今中さんの活躍を見ていた。初のアジアからの出場で、とくに14日目には一人遅れていたため、テレビでも「イマナキャ」という名前が連呼されながら、何度も大きく放映されていたのをよく覚えている。

日本チームがツールに出場するために

 引退後は「インターマックス」を設立し、事業でも成功しているが、メディアやイベントなどでロードレースの裾野を広げる活動も精力的に展開している。

トークショーの最後には、ライディングテクニックも説明してくれた Photo: Akiko SAITO

 多くの先人たちが日本チームをツール・ド・フランスに出場させるべく尽力しているが、今中さんもアドバイザー的な観点で支援をしている1人だ。

 今中さんは「町で一番、県で一番、そして日本のトップ級になったなら、世界のスタンダードに合せなければツール・ド・フランスは遠い夢になってしまう」と強調。「欧州でのレース経験が豊富な選手でないと世界では戦えない。サッカーでもジーコが来て日本を強くしたように、ロードレースでも世界レベルのメンバーとともに同レベルの指導を受けることが必要不可欠」と語った。

瀬戸 圭祐瀬戸圭祐(せと・けいすけ)

中学高校時代にランドナーで日本全国を走り、その後北米大陸ロッキー山脈、北極圏スカンジナビア山脈、欧州アルプス山脈、西ヒマラヤ/カラコルム山脈、ヒンズークシュ山脈などを単独縦断走破。著書は「ジテツウ完全マニュアル」「爽快!自転車バイブル」「自転車ツーリング ビギナーズ」「自転車生活スタートガイド」など多数。現在は自動車会社に勤務しつつ、NPO自転車活用推進研究会理事や(社)グッド・チャリズム宣言プロジェクト理事などを務め、より良い自転車社会に向けた活動をライフワークとしている。

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