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つれづれイタリア~ノ<90>チポッリーニ専属メカニックに聞いたプロの仕事 選手の悩みも見抜くサポート役

by マルコ・ファヴァロ / Marco FAVARO
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 仕事柄、自転車レースに携わる様々な方と接点し、ためになる面白い話をたくさん聞いています。先週、世界最大のビンテージサイクリングイベント「エロイカ」のカリフォルニア版に参加するためアメリカに向かい、会場で「カルベ」こと、ロベルト・レンチョーニ氏の姿を見かけました。彼もビンテージバイクの愛好家で、様々なグッズやジャージを売っていました。カルベ氏は120kgを超える巨体の持ち主で口髭が特徴的。生粋のトスカーナ男で、実はイタリアが誇るメカニックの一人です。

アメリカで行われたエロイカ・カリフォルニアのプレゼンテーションの様子。カルベ氏は後列右から2人目) ©Eroica.cc

 彼はフレディ・マルテンスをはじめ、マウリツィオ・フォンドリエスト、イヴァン・ゴッティ、世界的なスプリンター、マリオ・チポッリーニら名選手の専属メカニックを務め、度肝を抜く早業で有名です。

 現在、58歳のカルベ氏は地元で自分の店を経営し、子供からジュニアカテゴリーまでのチームの監督を務め、未来を担う若いアスリートの発掘に専念しています。ちなみに「カルベ」というあだ名は、住んでいる地域からつけられたもので、お菓子につかう豆の一種です。

 彼にメカニックという仕事の重要性と秘話を聞いてみました。レース中には見えない素晴らしい世界が見えてきます。変わってゆくレースの世界がいかに面白いものか。

工場務めからレースのメカニックに

――自転車との関わりはいつ始まりました?

 小さいころに自宅の近くでずっと自転車レースを見ていて、いつの間にか自転車レースに憧れ、ロードレーサーになりたいと思えるようになりました。地元のチーム、ファニーニに入り、通算80勝も飾りました。しかし、1977年にスピードの出しすぎでオートバイ事故を起こし、足の骨を骨折してしまいました。そうすると、父が激怒しレースが禁止され、地元の工場で働くことになりました。でも頭が自転車の世界から離れず、メカニックの道を選びました。この分野で才能が開いたかも。

――いつから本格的に自転車競技に携わることになった?

 1979年にサンジャコモ モビリ べノットというチームに入り、ここから冒険が始まりました。1984年にセッレサンマルコ・ドロメダリオやアルファ・ルム、1988年にマニフレックス、1991年にジョッリ・クラブなど、次から次へ様々なチームから声がかかり、実践の中で経験を積みました。

 1996年にマリオ・チポッリーニに呼ばれ、サエコにたどり着きました。それ以降、ずっとチポッリーニに付き添いました。2004年ゾルダーで行われた世界選手権にも付き合い、優勝した時にどれだけ嬉しかったか鮮明に覚えています。またチポッリーニとアメリカにも渡りました。彼が選手として復活するはずだったロック・レーシングに入り、カリフォルニアにも移り住みました。でもチームが長続きしなかったのですぐにイタリアに戻りました。それ以降、地元で自分のショップを経営し、子供向けのプロジェクト「G.S. Cicli Carube Progetto Giovani」を立ち上げました。

マリオ・チポッリーニとカルベ氏 =ジロ・デ・イタリア第1ステージ、2004年5月9日 Photo : Yuzuru SUNADA

――マリオ・チポッリーニはどんな選手でしたか

 とても厳しい人でした。精密機械のようにディテールに細かく、レースが始まる前に必ず自転車をチェックしていました。1mmでもシートポストの高さがずれたら、すぐ指摘するような人でした。メカニックと選手との絶対的な信頼がなければレースに大きなマイナスの影響を与えることになります。チポッリーニとの関係は緊張感と喜びに満ちたものでした。

選手の自転車に乗って“お届け”

バイクやホイール交換後、選手を素早く送り出す Photo : Yuzuru SUNADA

――メカニックの仕事とは?

 メカニックは影のように選手を支え、寝る時間も惜しまずあらゆる状況に対応しなければなりません。グランツールは、メカニックの腕が試される晴れ舞台でもあります。しかし、今のレースを見ると、あってはならないことがたくさんあります。些細なことですが選手がレースの途中に自転車を交換する必要がある場合、メカニックは必ず選手の背中を押し、素早くグループに戻るように手伝います。しかし選手たちがサポートを受けずに再スタートするのを何回も見たことがあります。私がそんなことをしていたら、レース後にボコボコにされるに決まっています。

 またパンクが発生するともちろんホイール交換をします。ですが、ホイールの空気が抜けていることも見たことがあります。大体トラブルを起こすメカニックほど英語を話す人です。この点でイタリア人のメカニックが優れています。

 1980年にジロ・ディタリアの最中にサポートカーが故障し、マリアローザだったキャプテン、ロベルト・ヴィゼンティーニも最悪なことにパンクをしてしまいました。今は禁止されていますが、自転車を届けるために、その自転車に乗って、直接に届けたこともあります。そんな時代もありましたね。

大柄なボーネンに「自転車のサイズが合わない」

雪山のレースではメカニックのサポートが特に重要 Photo : Yuzuru SUNADA

――ほかにメカニックはどんな仕事がありますか。

 メカニックには、機材トラブルのほか、重要な仕事がたくさん待っています。その中で、レース中のサポート、特に山岳コースには細心の注意を払います。例えばジロ・ディタリアは5月に行われるためにドロミティが近づくと雪が降ることが珍しくありません。天気の急変もあり、選手の着替えと温かい紅茶、そしてお湯の入っている水筒を用意します。

 低体温症になると意識が飛ぶこともあるのでとても危険です。選手が意識を失う前に温かい紅茶を飲ませ、まずは内部から体を温めます。その次、お湯で手を温め、着替えさせます。私が着ている服を着せたこともあります。意識が朦朧している中で覚えている選手は少ないですが(笑)。

 トム・ボーネンがレースを引退した今言えるエピソードもあります。2007年シーズンの前半に思うような走りができず、彼はずっと悩んでいました。自転車がタイムからスペシャライズドに変わったばかりで、私は自転車のサイズが合わないと見抜いていました。ボーネンは身長が高く、特別なサイズが必要でした。以前、スペシャライズド社との仕事をしていたため、担当者と協議をし、チポッリーニでも試したやり方で問題を解決しました。

2007年のパリ~ルーベを走るトム・ボーネン Photo : Yuzuru SUNADA

 地元の職人にボーネンに合うサイズのアルミフレームを作らせ、それとわからないように塗装させました。自転車が届いて2日後、ベルギーで行われたドワーズ・ドール・フラーンデレン(Dwars door Vlaanderen)でいきなり優勝!ボーネンがどれだけ自転車をほめたか現在も覚えています。そのフレームをスペシャライズドの工場に送り、すぐにボーネンだけのためにカーボンのフレームが作られました。選手の隣にいるメカニックにしかわからないことが多いので、選手とメーカーとの大事なパイプラインを務めることがあります。

――選手たちはどう変わりましたか?

 昔と比べて、体格が大きく変わりました。自転車が重かったせいか、生活も不便だったせいかわからないが、体格に優れ筋肉質な人が多かったです。パワーでヒルクライムに挑み、重さで下る。スピード感が違っていました。フレームを素手で曲げてしまうほどの力の持ち主もいました。でも時代が変われば、選手も変わりますね。

――現在はどんなことに取り組んでいますか?

 子供たちに自転車の喜びを教え、まずはインドアで自転車の操作や集団での走行術を教え、その次はロードレースに参加させます。大会は毎週あります。

カルベ氏(左)が立ち上げた子供のチームの紹介イベント ©GS Carube progetto giovani

◇         ◇

 まだまだ聞きたいことが多かったのですが、ここまでにしました。やはり現場を知る人の声は貴重です。これからもたくさんのインタビューを届けたいと思っていますのでご期待ください。

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

東京都在住のサイクリスト。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会や一般社団法人国際自転車交流協会の理事を務め、サイクルウエアブランド「カペルミュール」のモデルや、欧州プロチームの来日時は通訳も行う。日本国内でのサイクリングイベントも企画している。ウェブサイト「チクリスタインジャッポーネ

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