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猪野学の“坂バカ”奮闘記<6>わかっちゃいるけど負けたくない! カメラと俳優業の狭間で揺れる「坂バカ」魂

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 これまで、日本で本格的な自転車の情報番組はあまりなかった。全くノウハウのないところから自転車の撮影をするのは、実は物凄く大変だったようだ。まさかカメラマンが100kmずっと走って撮るわけにもいかないし、国内を探しても自転車の美しいムービーを撮れるカメラマンというのが見つからない。そのため、『チャリダー★』は自分たちで撮影用のモト(モーターバイク)を作るところから始まった。

カメラを向けられれば笑顔で応える。たとえ心拍が180を越えていてもだ!カメラを向けられれば笑顔で応える。たとえ心拍が180を越えていてもだ!

番組を撮影するカメラたち

野辺山シクロクロスにて 頭上に燦然と輝く小型カメラ…まさに目の上のたんこぶ!野辺山シクロクロスにて 頭上に燦然と輝く小型カメラ…まさに目の上のたんこぶ!

 ツール・ド・フランスのようにモト後部シートからカメラマンが撮影する他、バイクの前後にもカメラを固定できるようにした。番組の美しい走行映像はこの3台のカメラで撮影したものだ。

 自転車にも小型のカメラを付けて走る。多いときは前方、後方、そして自分向け…。なかなかの重さになる。たくさんカメラを付けた方が良いのは分かるが、大金をはたいて軽量に仕上げた自転車があっという間に鉄ゲタのようになってしまう。野辺山シクロクロスの時はヘルメットの上にもカメラを付けた。ロードならまだしも、シクロクロスは飛んだり跳ねたり。カメラの重みでヘルメットがズリ落ち大変な思いをした 。

 しかしこのメットカメラは、チェーン落ちを焦りながら直すシーンを臨場感たっぷりに捉え、番組を盛り上げてくれた。映像は撮れなければ意味がない…でも重くなって走りにくい…複雑だ。

カメラの重さでずり落ちるヘルメット/「ひがしね雪祭りシクロクロス」よりカメラの重さでずり落ちるヘルメット/「ひがしね雪祭りシクロクロス」より

 自転車カメラを取り付けるのはアシスタントディレクター(AD)と呼ばれる若手スタッフの御仕事。彼等は、ロードバイクに触った事もないのに、6角レンチ片手に丁寧に取り付けてくれる…と良いのだが、なかなかそうは行かない。番組開始当初は、いざレースに向かおうと自転車にまたがったら、サドルやハンドルがあさっての方向を向いていたり、小型カメラが取れそうになって焦ったこともあった。常に動き続け、振動が伝わり続ける自転車を撮るのは、本当に大変な作業なのだ。

「撮られてなんぼ」の俳優業

新城選手・土井選手らと走った、地獄のタイ合宿ロケ。O君はADとして同行していた新城選手・土井選手らと走った、地獄のタイ合宿ロケ。O君はADとして同行していた

 若手スタッフと言えば強烈に印象に残っている男がいる。それは今年5月の新城幸也選手(ランプレ・メリダ)のタイ合宿密着取材に同行したADのO君だ。

 それはタイの山岳部での出来事だった。新城選手ら強度の高い集団から千切れてしまった私は、単独で山岳地帯を走る事に。しかし暫く走ると集団から落ちて来る選手がいる。現地のタイ人ライダーだ。彼はかなりの大柄、平地は速かったが、坂は苦手なのだろう。

 「ビリは回避出来るぞ!」

 私のせこい根性に火がついた。勾配がキツくなった所でペースを上げて一気に追い抜く、心を折る作戦だ! さあ勾配がキツくなり始めた。ここでアタックしてやる! …とその時。突如若手スタッフO君が現れ制止した。

 「猪野さん、定点カメラで景色込みで撮るから止まって下さい」

「定点カメラで景色込みで撮った画」の例。美しい風景を見られるのも、番組の魅力だ「定点カメラで景色込みで撮った画」の例。美しい風景を見られるのも、番組の魅力だ

 何とも間が悪い。私をスルリと追い抜いて行くタイ人ライダー。やるせない。しかし私は俳優として仕事で来ているのだ。そう、私はプロの俳優。撮られてなんぼなのだ。こんな事では動揺しない。

私はプロだから、自撮りでも何でも与えられた仕事はこなす私はプロだから、自撮りでも何でも与えられた仕事はこなす

 3分くらい待っただろうか、ようやく再スタート!定点カメラに向かってしっかりコメントもする(カットされたが)。そう、私はプロの俳優だ。

 暫く走るとまたタイ人の背中が見えて来た。セコい心に再着火!ビリは嫌だ!一気に心拍を上げて追い付く。今度こそ逃げを決めるぞと思った時、今度は前方に補給車が現れた。気温は40度、補給は必須だ。タイ人も一緒に補給をとる。

 タイ人はチラチラとこちらを見ている気がする。内心はこんな眼鏡の日本人に負けるものかと思っているに違いない。こっちだって負けるもんか。

ついに「坂バカ魂」に着火

 タイ人が補給を終えスタートする。すかさず私も出ようとした時、O君が「バッテリー変えまーす」と呑気な声で制止する。

 自転車に付いてるカメラのバッテリーを交換したいらしい。なぜ私が補給してる間に交換しなかったのか? こっちは国境を越えた真剣勝負中なのだ。

見よO君!これがプロの仕事だ!筆者自ら新城選手に直撃インタビュー!見よO君!これがプロの仕事だ!筆者自ら新城選手に直撃インタビュー!

 しかし私は芸歴20年だ、こんな事では怒りはしない。

 無言でバッテリー交換を待つが、O君は、「あれ?あれ?」といつまでもカチャカチャやっている。こんなに手際の悪いバッテリー交換は初めて見た。どんどん小さくなっていくタイ人ライダー。

 私は仕事で来ている、私は仕事で来ている、撮られてなんぼ、撮られてなんぼ…心に言い聞かす。が、気が付いたら私はO君を振りほどきスタートしていた。坂バカとしての、セコい心が勝ってしまったのだ。

 結果、私はタイ人を追い抜き、僅差で新城選手達の待つ休憩場所に先着した。私はプロの俳優として失格だ。バッテリー交換を待てなかった。しかし、坂バカとしてのセコい心は充分満たされた。

 そう、私はビリではなかった。

 撮影が終わり、チェンライ空港まで見送りに来たO君が握手を求め、目に涙を浮かべこう言った…「猪野さん、撮れ高120%です」と。

撮れ高120%!あんな画もこんな画も、たくさん撮ったなぁ…撮れ高120%!あんな画もこんな画も、たくさん撮ったなぁ…
おい!O君!読んでるか?君のことだよ!おい!O君!読んでるか?君のことだよ!

 今も自転車にカメラを取り付けるたびに、灼熱のタイ山岳部でのO君を思い出す。彼が立派なディレクターになった時、私をまた使ってくれるだろうか…。

 その時に彼の理想の映像を撮らせてあげられる体力を維持しようと、寒空の下、今日も尾根幹へと漕ぎだすのだった。

(写真提供:NHK/テレコムスタッフ)

猪野 学猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:25)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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