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つれづれイタリア~ノ<番外・海賊編>マルコ・パンターニの急逝から10年 “イル・ピラータ”を愛してやまないイタリア人たち

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 きょうは2月14日。世の中の恋人たちはバレンタインデーを祝っています。しかし、多くのイタリア人にとって、この日は純粋に喜べない日なのです。10年前にイタリア中部、リミニ市内のホテルの一室で、イタリアでもっとも愛され、イタリアでもっともバッシングを受けた自転車競技選手、マルコ・パンターニが命を絶った日だからです。34歳でした。

“死の山”モン・バントゥーでランス・アームストロングとの死闘を繰り広げたマルコ・パンターニ(ツール・ド・フランス2000)“死の山”モン・バントゥーでランス・アームストロングとの死闘を繰り広げたマルコ・パンターニ(ツール・ド・フランス2000)

 没後10年となるこの日は、イタリア中がパンターニ色に染まっています。

 イタリア国営テレビのスポーツ専門チャンネルRai Sport 2は、朝から真夜中までパンターニを特集。さらに全国の100以上の映画館でジェームズ・エルスキーン監督によるドキュメンタリー映画「パンターニ」が上映されています。

 死去から10年が経ちました。しかし、現在もパンターニはイタリア人を魅了し続けてるのです。偉大なるチャンピオンの生涯を振り返りながら、イタリア人の心に与えた影響について話したいと思います。

イタリアがもっとも誇るべき人物の一人

 2011年、イタリア統一150周年記念祭が盛大に行われました。全土で多くのイベントが行われ、イタリア統一後、もっとも影響を与えた人物たちにスポットが当てられました。

イタリア中が、パンターニ色に染まっている(2014年2月13日の「ガゼッタ・デッロ・スポルト」ウェブサイトより)イタリア中が、パンターニ色に染まっている(2014年2月13日の「ガゼッタ・デッロ・スポルト」ウェブサイトより)

 イタリア全国紙のコリエーレ・デッラ・セーラや、ラ・レプッブリカなどには、イタリア統一の父、カヴール男爵や、イタリア統一を進めた英雄、ジュゼッペ・ガリバルディと並んで、パンターニの名前も記載されていました。これほどイタリアで印象を残した選手は、伝説の自転車競技選手、ファウスト・コッピとジノ・バルタリ以外はいません。

 パンターニのために記念館(チェゼナーティコ市)が作られ、記念ジャージ、グッズ、書籍が販売され、さらに映画、カンツォーネ、特集テレビ番組まであります。まるでフレディー・マーキュリー、マイケル・ジャクソンといった人気ポップ歌手のような熱狂ぶりです。

 パンターニは普通の人にない、超人的な精神の持ち主でした。それは誰もが認めています。彼の魅力を簡単にまとめると、5つあります。

(1) カリスマ性に満ちた人だった
(2) とてつもなく大胆で、とてもなく強かった
(3) とてつもなく誇り高かった
(4) とてつもなく不幸だったが、不死鳥のように蘇った
(5) とてつもなく破天荒な選手だった

 彼の業績は、自転車競技に興味がない人の目をロードレースに向けさせるのに成功したことです。サッカーが絶大な人気を誇るなか、イタリア中に自転車競技ブームを巻き起こし、熱狂させました。パンターニが優勝した1998年ジロ・デ・イタリアでは、テレビ中継の視聴率が驚異的な50%超に達したぐらいです(国営テレビRai 3調べ)。

「ジロで優勝したらいくらもらえる?」

 さて、彼の人生を見てみましょう。マルコ・パンターニは1970年1月13日、イタリア中部のリゾート都市、リミニに生まれました。父は配管職人、母はピアディーナ(この地方の伝統的なピザ)の小さなキオスクを運営して生計を立てていました。自転車と縁のない家庭でした。

チェゼナーティコにあるパンターニ記念館チェゼナーティコにあるパンターニ記念館

 小さい頃は、チェゼナーティコという港町で暮らしていました。実はこの町には、サッカー日本代表の現監督、アルベルト・ザッケローニも住んでいます。パンターニは、サッカー選手としてスポーツを始めましたが、小柄だったためベンチ入りが多く、あまり好きではありませんでした。おじいさんからもらった自転車に乗ってみたら、誰にも負けない喜びを味わったそうです。こうして自転車選手としての道を歩みだしました。地元の自転車チーム、GSファウスト・コッピに入団し、ヒルクライマーとしての才能が花開きます。

 1984年4月22日、14歳の時にジュニアカテゴリーで初優勝。1992年にはジロ・ジョーヴァニ(現ジロ・ビオ)を制覇し、カレーラ・タッソーニの監督だったダヴィデ・ボイファーヴァに目をかけられて同年末に入団。当時のエース、クラウディオ・キャプッチのアシストとして期待されました。

 しかし、この時からすでに、常人ではない風格を表しはじめます。性格のはっきりしていたパンターニは、契約時に驚くべく注文をつけたそうです。

 「レースやジロで優勝したらいくらもらえる?」

 新人が決して口にしない要求ばかりで、当時はタブー視されたぐらいです。ボイファーヴァ監督は契約書を何度も書き直すことになりました。サインにたどり着いた時、監督はこう告げたそうです。

ボイファーヴァ「Signor Pantani, Lei ha fatto un buon affare(パンターニさん、いい契約を結んだでしょう?)」

パンターニ「L’affare, l’avete fatto Voi.(いいえ。あなたちこそいい契約を結んだと思います)」

 レジェンドの始まりでした。

インドゥラインを抑えて初優勝

 1993年、契約通りジロ・デ・イタリアにアシストとして初参加しましたが、この年はけがのため18ステージで途中棄権。翌94年に再びクラウディオ・キャプッチのアシストとして出場しました。無名だったパンターニは、ここで一気にファンの注目を浴びることになります。アルプスが待ち構えていた第14ステージ(リンツ・メラーノ)、パンターニはマリア・ローザを着るエフゲニー・ベルズィンと、当時ツール・ド・フランスを連覇中だったミゲル・インドゥラインに対してアタックし、反撃に耐えぬき、24歳でプロとして初優勝を飾ります。

大胆なアタックで連勝を飾り、一躍ヒーローになったパンターニ(ジロ・デ・イタリア1994)大胆なアタックで連勝を飾り、一躍ヒーローになったパンターニ(ジロ・デ・イタリア1994)

 当時、無名の選手がマリア・ローザとトップスターの大物選手にアタックすることは、暗黙の了解で禁じられた大胆な行動でした。プライドを傷つけられたインドゥラインが、激怒したぐらいです。

 翌日、第15ステージ(ミラーノ・アプリカ)でも再び猛アタックし、また単独でステージ優勝。キャプテンのクラウディオ・キャプッチも驚くほどでした。最終的には、インドゥラインを抑えて総合2位。瞬く間にヒーローの座へ駆け上りました。

 同年のツール・ド・フランスでは、屈辱を受けたインドゥラインの復讐に合い、ステージ優勝は一度もできませんでしたが、それでも総合3位に入りました。

たび重なるけがと事故

途中リタイアしたパンターニ。落車に見舞われることも多かった(ジロ・デ・イタリア1997)途中リタイアしたパンターニ。落車に見舞われることも多かった(ジロ・デ・イタリア1997)

 しかし、ここから不幸の連続が始まりました。パンターニはレース中によく転倒し、また事故にもよく遭遇したのです。それは、彼のあるクセがネックとなっていたのです。危険な下りに差し掛かると、彼は先頭ではなく、グループの真ん中にずっと居座ってしまうのです。そのため集団落車が起こる度に、巻き込まれてしまいました。

 1995年には、車との接触事故によりジロ・デ・イタリアをリタイア。その年のツール・ド・フランスには間に合い、3度のステージ優勝を挙げ(第9、10、14ステージ)、マイヨ・ブラン(新人賞)も獲得しました。

 コロンビアで行われた世界選手権は3位。しかしその後、練習中に、逆走してきた車と正面衝突し、脚の骨の粉砕骨折という大けがに見舞われました。

 パンターニはそんな大事故にもくじけず、5カ月間のリハビリを経て翌1996年、奇跡的にレース復帰を果たしました。

ラルプ・デュエズで最速記録を叩き出したパンターニ(ツール・ド・フランス1997)ラルプ・デュエズで最速記録を叩き出したパンターニ(ツール・ド・フランス1997)

 この年は調子を取り戻すために過ごしました。1997年には、パンターニを中心に立ち上げた新しいチーム「メルカトーネ・ウーノ」に入り、ジロ・デ・イタリアに出場。しかし、このジロでまた不幸が起こりました。下り坂でネコが道路を横断し、パンターニが転倒。けがをして、またも途中棄権。

 しかし、けがの程度は軽かったおかげで、ツール・ド・フランスに間に合いました。この年のツールは苦手なタイムトライアルが多く、ヤン・ウルリッヒに敗れて総合3位に終わったものの、ステージ2勝を挙げました。そのうち第13ステージ、著名な峠「ラルプ・デュエズ」の山頂ゴールで37分35秒という最短登坂記録は、未だに破られていません。現在も記念塔があります。

“イル・ピラータ”誕生! そして栄光の1998年

個性的な風貌やキャラクターが、海賊を連想させた(ジロ・デ・イタリア1998)個性的な風貌やキャラクターが、海賊を連想させた(ジロ・デ・イタリア1998)

 この年、彼を象徴する“イル・ピラータ”(海賊)というニックネームが命名されました。その名は、パンターニの独特の風貌に由来します。もともと身長170cm、体重57kgと小柄だったパンターニは、頭も小さく、サイクリングキャップが大きすぎるので、足りない部分をバンダナでカバーしていました。さらに、あごひげ、鼻にピアス、スキンヘッドスタイル(若くして剥げていました)、そして類を見ない攻撃的な走りに対し、誰もが海賊を連想したのです。

 1998年のジロ・デ・イタリアで初の総合優勝を飾ることができました。アルプスに突入した途端に猛攻撃を開始! アルペ・ディ・パンペアゴでの第18ステージにおける、パヴェル・トンコフとのマリア・ローザ争いは、歴史に残る一戦になりました。

ジュゼッペ・グエリーニにステージ優勝を譲ったパンターニ(ツール・ド・フランス1998)ジュゼッペ・グエリーニにステージ優勝を譲ったパンターニ(ツール・ド・フランス1998)

 しかし海賊は、厳しい戦いのなかでも礼儀作法を忘れませんでした。一緒に逃げに入ったジュゼッペ・グエリーニ(チーム・ポルティ)にステージ優勝を譲ったのです。これも暗黙のルールでした。マリア・ローザを獲得する選手は、逃げに入った他の選手にステージ優勝を譲るもの。イタリアの選手は今もこのルールを大切にしています。

 このステージの視聴率は、初めて50%を超えました。次の第19ステージではトンコフの猛反撃にあいながらも、何とか逃げ切りました。このステージも伝説となりました。

 ジロのあとは休みたかったパンターニですが、ルチャーノ・ペッツィ(メルカトーネ・ウーノのテクニカルアドバイザー)の死亡で、彼との約束を果たすために、ツールに参加することを決めました。準備不足で滑り出しはよくなかったし、ずっと集団の中で隠れていた2週間は、ヤン・ウルリッヒが絶好調。トップから8分も差が開きました。

 しかし第15ステージ、最悪の天候のなか、ガリビエの麓で猛アタックを開始。ゴールまでまだ50kmありました。この日からじわじわとタイムを稼ぎ、イタリア人として33年ぶりの総合優勝を飾ります。33年前に優勝したフェリチェ・ジモンディも表彰式に参加しました。

終盤の追い上げで“ダブルツール”を達成した(ツール・ド・フランス1998)終盤の追い上げで“ダブルツール”を達成した(ツール・ド・フランス1998)

 同じ年にグランツール(世界3大ステージレース)をダブル優勝できたのは、パンターニを含めたったの7人です。エディ・メルクスが3回。ファウスト・コッピ、ベルナール・イノー、ミゲル・インデュラインが2回。ジャック・アンクティル、ステファン・ロッシュ、そしてマルコ・パンターニが1回。

 この優勝は、別の意味でも大きな意味を持ちました。ツールの大会中に、史上最大のドーピングスキャンダルと言われた「フェスティナ事件」が勃発。フランス警察はフェスティナ・ロータスのチームカーから大量の禁止薬物を見つけ、チームはレースの戦線を離れました。さらに、多くのチームがレースをボイコットし、198人でスタートしたツールは98人で終わりました。そんな中で、パンターニの偉業は唯一の光明でした。

 しかし、ドーピングスキャンダルはこの年を境に、自転車競技界に大きく暗い影を落とし始めました。

1999年、終わりの始まり

 1999年もパンターニは絶好調。ジロではまた名勝負を繰り広げ、しっかりとマリア・ローザの座に就きました。

 しかし、6月5日早朝に血液検査が実施され、パンターニのヘマトクリット値が異常値である50%超だったとして、選手の健康を保護するため、第21ステージを前にレースから除外されてしまいました。

 イタリア中がショックを受けました。パンターニ自身も大きなショックを受け、次のような言葉で潔白を訴えました。

「Mi sono rialzato, dopo tanti infortuni, e sono tornato a correre. Questa volta, però, abbiamo toccato il fondo. Rialzarsi sarà per me molto difficile. Mi hanno tolto la dignità. (怪我をして何回戻ってきました。しかし、今回底をついた。おそらく立ち直ることができないだろう。人間としての尊厳が踏みつぶされた)」

 この日から、マルコ・パンターニにはドーピングのレッテルが張られてしまいました。それを、彼の強いプライドは許せなかったのです。

 特にガゼッタ・デッロ・スポルト紙をはじめ、多くのイタリアメディアが強烈なバッシングを始め、パンターニを苦しめました。

 2000年にはジロ・デ・イタリアで復帰し、キャプテンとなっていた若手選手、ステファノ・ガルゼッリのアシストを務めました。この時もイタリアのメディアはパンターニを批判し、「ドーピングしていないので、キャプテンを務めることができなかったのだろう」とまで言われました。2000年のツール・ド・フランスでは、“死の山”と呼ばれる過酷な峠、モン・バントゥーの第12ステージで、ランス・アームストロングとの死闘に勝ちましたが、その後にけがでまた途中棄権してしまいました。

最後のジロでは、総合14位という結果を残した(ジロ・デ・イタリア2003)最後のジロでは、総合14位という結果を残した(ジロ・デ・イタリア2003)

 精神的に弱っていたパンターニは、練習に集中できず、弁護士と過ごす時間のほうが長くなっていました。追い打ちをかけたのが、ツール・ド・フランスにチームが招待されなかったことでした。実は、パンターニはツールに強いあこがれを持ち、ジロはツールの通過レースでしかなかったそうです。

 2003年が、彼の最後のシーズンとなりました。そして、家族や友人から孤立したパンターニはコカインに手を染めてしまい、2004年2月14日、コカイン中毒によるオーバードースで亡くなりました。葬儀には数万人が参列し、ショックのあまり泣きだす人が続出したほどです。

謎の残るドーピングとマフィア関与説

 当局による調査の結果、コカイン乱用による死亡と発表されていますが、実はこの結果に家族が猛反発しています。現場検証に不備があり、オーバードースではなく他殺による死亡だと訴えているのです。検察側の発表では、亡くなる前にホテルで暴れ、家具やテレビを壊したとのことですが、部屋に“散乱”していたテレビやいすは、不自然を装って置かれたようにも見えました。まるで作られたセットのように。パンターニの家族は現場検証のデータの開示を強く求め、死因の真相を確かめようとしています。

 さらに、最近になって、彼のドーピングスキャンダルの裏にマフィアの影があったのではないかとの疑惑も取りざたされています。

血液検査の結果、総合優勝目前で出場停止となった(ジロ・デ・イタリア1999)血液検査の結果、総合優勝目前で出場停止となった(ジロ・デ・イタリア1999)

 それは1999年に行われた血液検査のことです。当時、闇社会で流行した「Calcio Scommesse(サッカー賭博)」の全貌を警察が暴いたばかりでした。サッカー賭博に手を出せなくなったマフィアたちは、自転車競技に目を向け、巨額の賭博が行われるようになりました。

 パンターニが、マフィアの陰謀で命を絶たれたのではないかという疑念は、いくつかの証言から浮上してきました。その理由は二つ。一つは、チームが行った血液検査のデータ。パンターニのヘマトクリット値はずっと46%でした。もう一つは、検査方法です。検査を行ったのは、UCI(国際自転車競技連合)の検査官ではなく、イタリアオリンピック委員会の検査官でした。名目は「選手の健康を守るため、ヘマトクリット値を調べること」でした。

 しかし、パンターニによると、検査官たちは非常に緊張していて、採血してから「これをよく見ろ! あなたの血液だよ! どんな意味か分かっているよね?」という意味深な言葉を残してその場を去りました。普通なら、検査官が決して言わないことです。

 チームのマッサージ師、ファブリツィオ・ボッラの発言によれば「パンターニは、罠にはめられるのではないかと、人への信用を失っていた」そうです。

マルコ・パンターニの光と影

子供からも愛され、憧れの的だったパンターニ(ジロ・デル・トレンティーノ1999)子供からも愛され、憧れの的だったパンターニ(ジロ・デル・トレンティーノ1999)

 短い競技人生を経て亡くなったマルコ・パンターニは、光と影の両面を持っている選手です。そして闇の中で、真相は見えなくなりました。実はイタリアでは、今も彼の潔白を信じる人がほとんどです。負のヒーローとして、愛され、尊敬され、偶像化されつつあります。

 ファンたちは、パンターニが過去に受けたマスメディアによる強烈なバッシングも忘れてはいません。昨年、英雄的スプリンターだったマリオ・チポッリーニが過去に禁止薬物を使用していたとガゼッタ・デッロ・スポルト紙が報じると、激怒したロードレースファンたちが「パンターニの屈辱を忘れるな!」と、同紙のウェブサイトに怒りの書き込みをしたほどです。

 真相を確かめたい家族の戦いは長くなりそうで、私たちファンは行方を見守るしかありません。パンターニは静かに見守ってくれていることでしょう。

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

イタリア語講師。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会で、自転車にまつわるイタリア語講座「In Bici」(インビーチ)を担当する。サイクルジャージブランド「カペルミュール」のモデルや、Jスポーツへ「ジロ・デ・イタリア」の情報提供なども行なう。東京都在住。ブログ「チクリスタ・イン・ジャッポーネ

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